(154)讃留霊王神社(さるれおう)
ここには、江戸時代初期まで『法軍寺』という古刹もありましたが、生駒一正により高松市錦町に移転し、名称も父の生駒親正の法名を採り『弘憲寺』とされました。
讃王さん秋まつり平成20年9月28日(日)
12:00〜 神事
14:00〜 神輿渡御
14:30〜お旅所神事・獅子舞・浦安の舞・神輿お上がり

讃留霊王古墳(下法軍寺)東方より

讃岐富士 飯野山(飯山町下法軍寺より)

沿道の幟

讃留霊王神社(鳥居)

讃留霊王神社(参道)

讃留霊王神社(境内)

讃留霊王神社(秋まつり神事1)

讃留霊王神社(秋まつり神事2)

奉納獅子舞(四組)






奉納 獅子舞
奉納 毛獅子舞
讃留霊王神社(境内外から)
讃留霊王神社(拝殿東の鳥居)
讃留霊王神社(本殿と古墳)

讃岐 讃留霊王伝説
第12代景行天皇の頃、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った天皇は息子の日本武尊にその悪魚の退治を命じました。しかし尊は自分の息子の武殻王にその役目を命じるように天皇に勧めます。
悪魚退治を命じられた皇子はさっそく土佐に向かいます。ところが大魚はすでに阿波の国鳴門に移りさらに讃岐国の大槌、小槌付近の海で暴挙の限りを尽くしていました。 皇子は讃岐まで大魚追いかけ、綾歌郡綾川の上に陣をしき、80人余の兵を軍船乗せ、大魚に戦いを挑みます。
しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、皇子と兵は船もろともたちまち大魚に呑まれてしまい、兵は大魚の毒気に皆倒れました。この危機の中、皇子は隠し持った道具で火を炊き、もがき苦しむ大魚の腹を切り裂きついに脱出に成功します。
そして皇子の乗った大魚の死骸は海岸に流れ着きました。しかし魚の毒気にあてられた兵は死人のようでした。そこへ白峰の方より雲に乗って一人の童子が現れ、水の入った壺を持って兵たちに飲ませるとたちまち蘇生しました。童子は横潮大明神という神様で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場の清水と名付けられました。
大魚の亡骸は、それが流れ着いた浜に魚御堂が建てられて供養されました。そこには大魚の腹部が地上に埋め残されていたので、この浦を腹江転じて福江といい、尾が海まで続いたのでその尾のあたりを江尻というそうです。更に、里人たちが皇子の成功を祝して、お供を献じたところが御供所だということです。
景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃岐に留まる霊王という意味から讃留霊王と呼ばれました。その子孫が讃岐綾氏だといわれています。
〈参照:讃岐の風土記より〉


















































































































