(76)崇徳上皇の経沈め〜大槌・小槌物語

保元元年(1156)の夏のこと,崇徳上皇(すとくじょうこう)が讃岐へ配流となる。ひとまず,高屋(現在坂出市)の綾高遠(あやのたかとう)の邸へ入られたが,間もなく長命寺へ移り住まわれた。高遠は,上皇さまの無聊(ぶりょう)をなぐさめるため娘を仕えさせた。

 高遠の娘は,都から下られた尊いお方の側近くへお仕えするためらいもあったが,いつかおやさしい上皇さまの胸にいだかれることが喜びとなってきた。そして,綾の局と呼ばれるようになる。

 都でどのようなむごいことがあり草深いこの地へ流されてこられたのか,綾の局には理解できない部分も多かった。だが,悲運をかこつ上皇さまをお慰めするのがわたしのつとめと,綾の局はまめまめしくお仕えするのだった。

 愛の結晶である顕末(あきすえ)も生まれ,静かな生活を上皇さまもお喜びになっていらっしゃると思ったのも束の間,配所は鼓岡(つづみがおか;現在坂出市府中町)の木の丸御所(このまるごしょ)へと移された。御所は厳重な牢舎,丘を背に柵をめぐらし出入りは木戸が一つ,終日番人が立っていた。中には池があり,池のむこうに風雨をしのぐばかりの板葺の小屋。監視はひときわきびしくなり,木戸の外への散策などは許されるはずもない。
御子とともに暮らすことなど思いもよらぬありさま,綾の局さえお側へも寄れない。

 はるばる都から訪ねてきた人とも逢うこともかなわず,上皇さまは日々荒んでゆかれる。鼓岡の配所でこれほどの冷遇を受けるとは,上皇さまにも思いもよらぬこと。あるいは,京都で政変が起こり呼び戻される日があるやも知れぬと,一縷(いちる)の望みをつないで,生きながらの墓所に上皇さまは座っていらっしゃった。そして,五部の大乗経の写経に励むことで,諦観(ていかん)の境地にはいろうとつとめられた。

 幽囚(ゆういん)三年あまり,上皇さまが心血を注いだ写経が完成,その巻末に

   浜ちどり 跡は都に 通へども 身は松山に 音のみぞ聞く

 御詠を書き添え,父鳥羽上皇の永眠するみ寺へ奉納すべく送られた。だが,呪詛(じゅそ)するものだ,と送り返されてきた。上皇さまは発狂せんばかりに怒りくるわれた。

 「われ魔性とならば,王を奪って下民となし,下民とって王となし,この国に世々乱をなさん」

 みずから舌を噛み,血をもって経巻の奥に誓言を書かれた。経巻の箱にも,小指をくいきって,五部大乗経竜宮へ納め給えと血書され,槌の門の千尋(ちひろ)の海に沈められた。

 槌の門(つちのと)では,海上で火が燃え童子が舞をまった。すると,竜神が現われ経巻をしっかりと受け取ったという。

 それからの上皇さまは,髪もひげも剃らず爪も切らず柿色の衣もまころびるにまかせ,ただ悪念三昧(あくねんざんまい)に都を呪い大魔王になると祈られた。
 木の丸御所に入られてから5年,上皇さまは46才で崩御。綾の局の聞いた死の真相は,讃岐の武士が上皇を弑逆(しいぎゃく)。柳の洞穴へ逃れた上皇さまを追っかけ。水にうつるお姿をみて斬りつけたというのだ。綾の局の悲しみは深かった。高遠とも相談し,上皇の御子顕末は瀬居の島へかくした。

 上皇のご遺骸は,都からの使いが来るまで八十場の霊水にひたされ,検視が終ってやっと荼毘(だび)にふされた。ご葬儀の列が高屋のあたりヘきたときものすごい雷鳴,六角石の上へ柩をすえて雷雨のしずまるのを待った。石の上へは,うす赤い絹の糸を引くような血が流れ落ちた。ご遺体は,白峰の稚児滝(ちごがたき)のあたりで荼毘にふされたが,まっ白い煙がまっすぐたちのぼり,その先が心なしか都の方へたなびいていったと伝えられている。

 崇徳上皇が,五部の大乗経を沈められたので大槌島小槌島の両島は,経が島とも呼ばれるようになりその神秘さを深めたという。


                  讃岐の民話より

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(74)小田池の人柱

小田池は,高松市川部町と香川郡香南町にまたがる。かつて,白鳥が飛来したというので,白鳥の来る池として有名。
この小田池も,西嶋八兵衛が手がけた池で寛永4年に成ったというが,相当な難工事であった。平野に築かれる池は,容易に堤防が築けず普請奉行は頭をかかえこんでいた。梅雨までに堤を築きあげなければ田植ができなし,藩主からはまだかまだかと催促の早馬がくる。池普請の人夫たちは,

 「こりや人柱でも立てなければなるまい。」

 と,ささやきあっていた。奉行に進言しても,むごいことを聞き入れてはくれない。

 そうこうするうちに梅雨のはしりの雨が長引き,またまた堤防が決潰してしまった。下手をすると田も植えられなくなると農民たちはさわぎはじめる。水がはげしく流れ出る堤を見ていた人夫たちは,人柱をたてなければ堤は築けないものと思いこむようになってしまった。

 奉行も,こう長引いたのでは方々に障害が起きてくる。人柱をたててでも堤防を築きあげなければと決心。だが,人柱に立とうという者はいる筈がない。

 すると,工事中の池のほとりを通りがかった女性がいる。奉行は,意を決してこの女性二人を人柱にたてることにした。一人は奥方,もう一人はお供の女性だったのだ。まだ年若いお供の女は、「運わるく奥方さまのお供を言いつかり,ここへ来かかったばかりに死ぬことになってしまった……。」

 と,泣き崩れる。でも,覚悟を決めた奥方さまの顔を見ているうちに,お供の女性も少し落ちつきこんな願いを托して池に入った。「奥方さまのお供で死んでゆくのですから,私の墓は,奥方さまの墓より少し離れた高いところへ建ててくだされ。」

 この女性は、「すわ」という名。奉行は、すわの最期のねがいのままに,高い山に「諏訪(すわみょうじん)明神」として女を祀った。奥方は「池明神」とし,池の守護神として祀られている。

 さしもの難工事もやっと完成。10月9日の祭りには,村中総出のにぎやかさ。

 池築造にあたっての人柱伝説が,ここにも哀しく語り残されている。

     讃岐に伝わる池の物語2 (平池) 讃岐の池は,二万とも三万とも言われる。池台帳に記載された池から,沼のような池まで入れると三万という数字になるのだろう。そして,これらの池には必ず伝説が語り残されている。なかで,哀れをさそうのが人柱伝説である。
さて,話は遠くさかのぼる。高倉天皇の御代,平清盛が,阿波の民部成良に命じて池を築かせた。しかし,何度堤を築いても池は決潰してしまう。民部は,神仏に祈った。すると,「明日,ちきりを持った女が通りかかる。その女を人柱にたてよ。」と夢告げがあった。

 民部は悩んだ。だが,工事は成功させなければならない,池が築けないのでは住民の苦労にも報いられない。

 ちきりを持った少女を堤に埋めこんで,池は完成。
ところが,池の東の隅,蛇渕といわれるあたりから水がしたたり落ちてとまらない。絶えまなくしたたり落ちる水音が「いわざらまし,こざらまし」とまるで乙女がむせび泣くように聞こえるのだ。

 来なかったらよかった,ちきりを持っているなんて言わなければよかったと,聞こえるというのだ。

里人は,この乙女の霊を池の中洲に祀った。そして,さらに雄山の上に移してちきり大明神として祭祀するようになった。毎年祭礼の日にはちきりを持った子供たちが鈴を鳴らして練り歩く。
なお,岩皿小皿と呼ばれるあたりに竹林があったが,これは,人柱になった乙女が持っていたちきりが芽吹いたものだという。

 池畔には,岩皿小皿像という乙女の像が建てられている。
     ―讃岐の民話より
             讃岐の民話より

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(72)讃岐の桃太郎のお話

讃岐一宮 桃太郎伝説  


 みなさんは桃太郎の話を知っているでしょうか。
 むかしむかしあるところに、で始まるおとぎ話。桃から生まれた桃太郎イヌサルキジをお供に鬼ヶ島に鬼退治に行くという有名なお話です。
 でもいまからお話しする桃太郎はちょっと違います。実はあの桃太郎にはお姉さんがいたというのです。そのお姉さんの名前は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)といい、さぬきの国、いまの香川県の高松市に住んでいたというのです。

 では、お話ししましょう。讃岐一宮 桃太郎伝説。


 むかしむかし、あるところに(というのは、さぬきの国ということですが)、ももそ姫という、美しい、ですが大変気丈な女の人がいました。
 ある日のこと、そのももそ姫が川のほとりを散歩していると(その川は、いまの鬼無のあたりを流れている本津川だったといいます)、上のほうから大きな桃がドンブラコドンブラコと流れてきました。ももそ姫は不思議に思い、その桃をうちに持って帰り、切ってみると、そのなかから玉のような男の子が出てきました。

 ももそ姫は、天から与えられた自分の弟だと思い、その子に桃太郎という名前をつけて大切に育てることにしました。

 桃太郎はどんどん大きくなっていきましたが、大変力持ちの上にわんぱくで、近所の子とケンカばかりしていました。

 その日も何人もの子どもとケンカして、「勝った勝った」と大いばりで帰ってきたのですが、たまりかねたももそ姫桃太郎を呼んでこう叱りました。

桃太郎や。わたしはいままであなたを、天からの授かりものとして弟のように育ててきました。あなたには人並みはずれた力と知恵と勇気があります。そのどれも、あなたがこの世界で大きな仕事をするために、天がお与えになったものです。なのに、あなたはその力をイタズラやケンカというつまらないことばかりに使っている。恥ずかしいとは思いませんか」

 桃太郎ももそ姫の話にじっと聞き入っていましたが、突然ももそ姫の前に両手をついてこういいました。

「わかりました。たしかにわたしが間違っていました。ですが、わたしはこの力をどうやって使っていいのかわかりません。わたしはこれからどうすればいいのでしょうか、教えてください、お姉さん」

 ももそ姫はしばらく考えて、こう答えました。

「それはわたしにもわかりません。たぶんそれはだれに言われるのではなく、自分で見つけださなければならないことなのです。桃太郎や。いまから旅に出なさい。その旅のなかで、きっとおまえはおまえのしなければならないことを見つけだすでしょう」

 こうして、ももそ姫桃太郎を送り出し、桃太郎は旅に出ることになりました。

 しばらく旅を行くと、雉ヶ谷というところに出ました(これはいまの鬼無の佐料というところです)。そこの人々はみな弓の名人で、雉の名のように空から敵を倒すことに優れていました。

 桃太郎がその地に足を踏み入れると、雉ヶ谷の人々は桃太郎の大らかで勇敢な人となりにすっかり心を奪われ、家来になりたいと申し出ました。

 またしばらく行くと、今度は猿王という場所に出ました(これはいまの綾歌郡綾南町、陶というところです)。

 猿王の人々は手先が器用で、火を自在に操る焼き物師の一族で、陶器の壺をつくるなどして暮らしていました。猿王の人たちも桃太郎のことを気に入り、桃太郎のために力になることを約束しました。

 次に桃太郎が立ち寄ったのは、犬島という島で、ここの人たちは船を操ることがとても上手でした(犬島は、いまの岡山市の沖合いにある島です)。犬島の人々も桃太郎の志を知り、大いに感銘を受けたのです。

 おとぎ話に出てくるキジサルイヌとは、この雉ヶ谷猿王犬島の人たちのことなのです。

 さて、桃太郎は旅の先々で、困っている村や悲しみに暮れている人々をたくさん見かけました。それというのも、鬼ヶ島に住んでいる鬼たちが、あちらこちらの村を襲い、財産を奪ったり、人をさらったりしているというのです。

 ここでいう鬼とは、じつは海賊のことで、鬼ヶ島というのはいまの高松の沖にある女木島・男木島のことです。

 桃太郎はようやく自分のしなければならないことに気づきました。それは鬼どもを退治して、村々に平和をもたらすことです。そのためにこそ、自分の力や知恵を使うべきだと思い至ったのです。

 こうして桃太郎は鬼退治(海賊のことですね)に出かけることにしました。そこに集まってきたのが雉ヶ谷猿王犬島の人たちです。みんなで力を合わせて鬼ヶ島に向かうことになりました。

 鬼ヶ島では鬼たちが待ちかまえています。犬島の人たちは巧みに船を操り、桃太郎たちを島に運んでいきます。島に近づいたころを見計らって、雉ヶ谷の人たちが弓矢で射かけます。鬼どもは慌てふためきましたが、それでも桃太郎たちに攻め寄せてきます。そこに猿王の人たちのつくった大きな壺に入れた油を流します。鬼たちは油に足を取られて、スッテンコロリン、転んでしまいます。さあ、次にその油に火をつけたのだからたまりません。鬼たちはただ逃げまどうばかりで、為す術を知りません。

 桃太郎はというと、手当たり次第に鬼たちを投げ飛ばし、ねじ伏せ、最後に鬼の大将を捕まえて「さあ、降参するか」と迫ります。

 鬼の大将は「降参です、降参です。もう悪いことはいたしません」と泣いてあやまりました。

 桃太郎はついに自分の役目を見つけだし、それを見事に果たしたのです。帰りの船には鬼たちが奪った金銀財宝が山のように積まれています。

 桃太郎がうちに帰り着くと、ももそ姫が目にいっぱい涙を溜めて迎えてくれました。

「さあ、こんなにいっぱい財宝を取ってきたよ。お姉さんはどれが欲しい」

 そう、桃太郎が聞くと、ももそ姫は、

「いいえ、桃太郎。その財宝は奪われた村の人たちのもの、お返ししなければなりません」

「でも、そうしたらお姉さんへのお土産がなにもなくなるよ」

「そんなことはありません。こうして無事に、大きく成長して帰ってきた、桃太郎。あなたこそがわたしへのお土産です。そして、それはどんな金銀財宝より大切なわたしの宝なのですよ」

 めでたしめでたし。


 というお話ですが、いかがでしたか。もちろんおとぎ話ですから、このお話はあくまでつくりものです。ただ、桃太郎のモデルになった吉備津彦(きびつひこ)という人と桃太郎のお姉さんとされる倭迹迹日百襲姫という人は、実際にいたともいわれています。


 そのお二人を神さまとしてお祀りしているのが、高松市の一宮町にある田村神社です。その田村神社では毎年二月三日には節分祭が盛大に催されていますが、節分の「鬼は外」はもしかしたら、桃太郎の鬼退治とどこかでつながってるのかもしれませんね。




倭迹迹日百襲姫命(ももそ姫)は、大和の国から八歳の時、讃岐の引田(安戸の浦)に着き、御殿を水主に造営(今の水主神社)。この地で土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈も行なった。ももそ姫の働きにより讃岐東部は安定した暮らしができた。


その後、讃岐全体に影響力を持つため、馬篠の艪掛けの松から船出、一時仏生山の船岡山に滞在した後、一宮の田村神社に住まいを移し、この地で吉備の国平定にあたっていた弟の五十狭芹彦命(吉備津彦命)の訪問を受け、女木・男木島の海賊退治を依頼。ももそ姫は、一宮の地で食料の安定確保のため、ため池を作り、新しい農地を開発し、農業技術を進化させ、祭祀を行ったため、当国農業殖産の開祖神として祀られている。



一、 五十狭芹彦命(吉備津彦命)が桃太郎といわれるようになったのも、ももそ姫の弟(太郎)であるというところからという説もあります。



二、 ももそ姫は大和黒田の盧戸にて、父を孝霊天皇、母を倭国香媛として生まれている。母の中に香川と愛媛の字が一字づつはいっているのもなにかの縁ではないでしょうか。




三、ももそ姫が讃岐に伝承した『稲』は、五行思想で木・火・土・金・水の内『金』に対応し、これが『桃』につながります。また、『金』がしめす方位は、西を指し、この方位に位置する十二支が酉(きじ)を中心に申(猿)と戌(犬)


であることも古代のロマンを感じさせます。

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(70)生島と突抜泉の話

 ほこりまみれのお坊さまが,青峰山のふもとまで歩いてこられた。疲れ果てたお坊さまは,水を一杯飲ませてもらおうと川のほとりの民家へ立ち寄った。あんまりきたないお坊さまなので,家の人は「水はないよ」と断った。お坊さまは,川の中へ杖を突きたてて

 「この川は,空谷だの」といわれた。

 同時に,川に流れていた水が川底へ浸みこんでしまった。川の底の方では水音がしているのに,川には水が流れなくなってしまった。川に水がないので,からだに川となってしまったという。このきたないお坊さまは,諸国を巡礼されていた弘法大師だったのだ。

 なお,空谷川の水は,生島の突抜泉へでるようになった。旱魃のときにもこの泉は枯れることがなく、近くの島々からも貰い水に来たほどの名水。突抜泉の名水をもらって生きたので,島の人々はこの浦を「生島」と言うようになったと伝えられている。
                    讃岐の民話より

tag : 青峰山 生島の突抜泉 生島 空谷川 弘法大師

(68)讃岐の海と備前の海

大槌島を南北に二分し,南半分が讃岐,北半分が備前のもの。この境界線を引きのばした大曾瀬から南側を香西の漁場,北側を日比(ひび)・渋川(しぶかわ)・利生(おどう)と備前の漁場とした。

 しかし,これでおさまったわけではない。じゃ今度は,樽を流して漁場を決めようと言うことになった。言い出したのは,備前の菅野彦九郎。この男,なかなかのきれ者,才知と弁舌で知れわたっている。大槌島を半分備前の領地にしたのもこの彦九郎の策略,争いが起きるといちはやく大槌島へ上陸して畑を作りはじめた。木炭を埋めて境界も作った。そして,まんまと北半分を備前領としてしまった。ある日のこと,彦九郎はこの大槌島から樽を流しはじめた。樽は,塩飽諸島のほとんどをとりこむように流れていったので,彦九郎はすっかり自信をつけてしまい,空樽を流して漁場を決めようと言い出したのだ。

 讃岐の漁師もそれは妙案と賛成し,両藩立合いのもとに,大槌島から神意を秘めた樽が投げこまれた。

 彦九郎は,内心ほくほくと今に見ておれと得意顔。ところが,樽の流れが少々変わってきた。樽は,讃岐側へ行くはずなのに,だんだん備前側へ寄りついてゆく。鷲羽山(わしゅうざん)のあたり釜島室木島の間まできて,樽はやっと西に向きを変えた。松島の南をすれすれに流れ下津井瀬戸をゆっくり進んで,六口島の南を通り水島灘へ消えていった。

 思いがけない結果に彦九郎はがっくり,陽もはや西へ沈もうとしている。「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが,ご異存はあるまいな。念のため申しあげると,潮の流れは時刻によって方向が違ってくるものじゃ。これが,もう半刻も遅れていればこれらの島はみな備前のものだったわ。」彦九郎は兜を脱いだ。海の知識の深さはとうてい讃岐にかなわないと,「まいりました。海は,讃岐におまかせ致しましょう。」

 それから,備前の海は,讃岐の海より,狭いものになってしまったという大槌島は半分備前領となったが,備讃海峡の島々はそのほとんどが讃岐のものとなり,現在に至っている。

 このとき江戸の裁判官のなかに,大岡越前守忠相の名があり,政所の植松彦大夫,浦年寄瀬戸屋善兵衛らが紛争解決に功労があった。なお,このときの判決状に八人が印を押していることから“八判”といわれるようになった。
               讃岐の民話より

《地図》
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F23%2F11.002&lon=133%2F49%2F18.76&layer=1&sc=6&mode=map&size=s&pointer=on&p=&CE.x=501&CE.y=179

四季さぬきの魚
春:サワラ() 
 字の通り、春を代表する魚。外海から瀬戸内海へ産卵のために回遊 するのがちょうどこの頃で、大きいものは1m超。これを押し抜き寿司でいただくのが、香川の食文化。他にも、味噌漬け、そら豆やフキとの真子の煮付け、白子の味噌汁もおいしい。もちろん、刺身やたたき、焼き物、酢の物など、おなじみの料理法でもおいしい。
 その他 春の魚
    桜鯛・イカナゴ・ナシフグ(でんぷく)・シャコ

夏:マナガツオ(真魚鰹)
 梅雨入りの頃、瀬戸内海へ産卵のために回遊してくる魚で、大きいものは50cmを超えるが、通常は2〜30cm。肉質がやわらかい上に脂肪も少なくクセのない味なので、焼き物(塩焼き・照り焼き)や煮魚など多種多様な料理法で多くの人に好まれる魚。なかでも、味噌漬けは絶品。
 昔さぬきの人が、土佐に『鰹』というおいしい魚が居ると聞い『鰹』を食べたところ、これが、うまい『鰹』という魚なら、讃岐には本当の『鰹』がいる、ということで、この名が付いたといわれる。
 その他 夏の魚
    スズキ・カタクチイワシ・小アジ・ベラ(ベロコ)
 
秋:チヌ(黒鯛)
 強い引きをすることから、釣り人に人気の魚。いぶし銀の体で、おおきいものは50cmを超える。刺身や塩焼き、煮付けなどが一般的だが、讃岐の郷土料理としては、チヌ飯やさつま。チヌ飯の調理法は、鯛飯と同様。さつまは、焼き魚の身をほぐし、焼き味噌と混ぜてダシ汁でとき、ごはんにかけて食べる。
 その他 秋の魚
    マダコ・アナゴ・ゲタ(シタビラメ)・サヨリ

冬:ハマチ(魬)
 成長とともに名が変わる出世魚。油の乗った時期の活きのいい刺身が一番ではあるが、焼き物(照り焼き・塩焼き)もおいしい。近年では、しゃぶしゃぶにして味わうのも流行り。
 その他 冬の魚
    カキ・ワタリガニ・タイラギ・イイダコ
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tag : 大岡越前 菅野彦九郎 塩飽諸島 大槌島 真魚鰹 黒鯛 ハマチ 八判

(67)讃岐一宮 田村神社 『底なしの渕物語』

底なしの渕」は,奥殿の下にある田村神社のご神体である。水の神さま,田の神さまの田村神社の奥殿は少々他の神社とはおもむきを異にしている。拝殿、幣殿、もうひとつ奥の本殿ともっとも低いのが,神さまをお祀りしてある奥殿なのである。
倭迹迹日百襲姫命


 もっとも棟の低い奥殿の下が,絶対に見ることができないという「底なしの淵」なのだ。盛夏といえども凄冷の気満つるところと伝えられているが,決してのぞいてはならない神淵なのだ。
 むかし、松平頼重公の命により,明暦元年田村神社の修理改築の折、普請奉行の竹内斉庵は神官の田村隼人に神淵を拝観したいと願った。隼人は止めようとしたが聞き入れない。
うかがい見た斉庵は凄愴の気にうたれ、にわかに心地悪くなり、駕籠で家に帰り寝こんでしまいそれからしばらくして息絶えてしまった。
 この話は,まだ続く。「底なしの淵」を木枠で囲い蓋をする。その穴から運わるく大工がのみを落しこんだところ、そのなかのものが差し出してくれたが、大工は恐ろしくて手で受け取ることができず、おそるおそる足で挟んで持ちあげた。ところがそれがわるかった。奉行も,大工もわずかばかりの患いであえない最期を遂げてしまった。
 普請の最中に,「底なしの淵」に不敬があったということで二人のものが命を落してしまった。まこと,生神のしるしであるとすべての人が恐れ慎んだ。

 「一宮大御普請の事」にはこうしたことが記録されてあるが,とにかく見てはいけないところは,やたら見せろ見せろと言うのはつつしんでもらいたいと伝えられている。

 「底なしの渕」にいたものは何かわからない。でも,神竜がいたのだとも,竜が守護しているのだともいう。かつては,境内に黒い蛇がたくさんいた。それは,神さまのお使い姫だったというのだ。

 袂井(たもとい),花の井など,境内にはいくつかの湧井がある。この袂井は,姫神がごやを召し上りすぎて下痢をなさったとき,この井戸の水を着物のたもとですくってお飲ませした。すると,姫神の下痢はとまり元気になられたというのだ。霊泉なのだ。

 それからしばらくの後,姫神がおなくなりになったとき,花の井の水をくみ姫神の御前に花をさして供えた。

 田村神社のお田植祭のとき,ひき入れる水田の水も,同じ水系のものを使用する。

 正月には,田村神社から おみずはつほ(御神水)をいただいて帰り,歳神さまへお供えしていた。ものがたい人がいる家では,現在でも続いている風習なのである。

 袂井花の井底なしの渕,ともに神水であり名水,田をうるおすもとの水と言うことになる。

              讃岐の民話 田村神社底なしの渕』より

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tag : 田村神社 松平頼重 御神水 底なしの渕 袂井 花の井

(65)海女の玉取伝説

 藤原不比等の妻 竜宮玉取り物語
今から1300年の昔 、大職冠(たいしょくかん)藤原鎌足公が、この世を去った時のことです。
 当時、海の向こう唐の国の皇帝・高宗の妃となっていた鎌足の娘(白光びゃっこう)は、父の死を嘆き悲しみ、せめて父の霊前に供えようと、唐の宮廷に伝わる『花原磬』(かげんけい)・『洫浜石』(しひんせき)・『面向不背の珠』(めんこうふはい)の三つの宝物をはるばると船に乗せて送ってきました。
 ところが、その船がさぬき志度の浦の沖合いにさしかかった時、一天にわかに掻き曇り、波が立ち騒ぎ、あれよあれよと驚くうちに波間から姿を現した竜神が、宝物の一つ『面向不背の珠』を打ちつかみ海底深く沈んでしまいました。
それから10年、鎌足の息子藤原不比等は、その玉を奪い返すために、『淡海』と名乗り、身分を隠して志度の浦へと下って来ました。そして、眉目美しい海女玉藻』と契りを結び、ついにその本心を打ち明けて助けを乞いました。今は、不比等との間に一子『房前』という子供までもうけている海女玉藻』の驚きは如何ばかりだったでしょう。愛する夫のために悲しい決意を胸の奥深く秘めた海女は、ただ一筋の命綱を頼りに、海底深く竜宮へ偲び寄ったのです。そして、『面向不背の珠』を見つけましたが、その玉は竜神に守られていて、なかなか取り返せません。激しい水中の戦いの揚句、ようやく珠を取り返し持っていた短刀で乳の下をかききり、珠を隠し海上に浮かび上がりました。
 しかし、夫の手に『面向不背の珠』を渡し、子供の行く末を頼むと良き途絶えてしまったのです。
 不比等は、玉藻の心根をふびんに思い、遺体を志度寺に埋葬しこの地を『死渡の道場』と名付け霊を弔い、子供を連れて都に帰りました。この子供が後の藤原四家のなかで一番繁栄した北家の創始、房前大臣(ふささきのおとど)と呼ばれた『藤原房前』です。
 後に房前大臣は、死渡を僧の行基とともに訪れ、母の冥福を厚く祈り悲しみを乗り越える為この地名を『志度』と変えたと伝えられています。
 夫のため、子供のために命を捨てた海女玉藻』の墓は今も志度寺の境内に残っています。そして、物語は能楽の『海女』として現代にも伝わっています。
海女『玉藻』

藤原不比等は、奈良時代初期、西暦659年に藤原氏の始祖『藤原鎌足』の次男として誕生。
大宝元年(701年)刑部(おさかべ)親王とともに《大宝律令》をまとめた。
同年、大納言となり、和銅元年(708年)右大臣となる。
養老二年(718年)太政大臣に任じられる。
平城京遷都では、新京の経営にあたり、氏寺の《山階寺》を奈良に移し、寺の名前を《興福寺》と改称した。藤原四家を生み、北家十代の後に藤原道長が登場する。
 そして、その16代後に讃岐を統治するのが、高松城初代城主の生駒親正です。親正は、不比等を偲び一六度市を志度に起こし、自分のなきがらも弘憲寺とともに志度寺にも分骨しています。
              讃岐の民話より

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