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(139)古語拾遺

古語拾遺

古語拾遺一巻 加序
           従五位下 斎部宿禰廣成撰

聞くところによると、上古の世は文字が無く、貴賎老少問わず口から口へ伝えていたが、その言った事、行った事や出来事を忘れはしないかと書き記して以来、古を語る事を好まなくなり、浮ついた華やかさを競い興じて還って旧老をあざ笑い、遂に世代を重ねて古代を忘れ、代を重ねる後とに古法をを失った。顧みて故実を問う時その根源を知らない。
国史・家史にこの理由を記録されていると言っても、詳らかにすれば、なお判らない所が有る。

愚臣が言わなければ、恐らく絶えてしまって伝える事が出来なく成ります。幸いに召されて問われましたので、長らく思って今した事を述べたいと思います。

故に旧事を敢えて申します。

聞くところによると、天地の初めイザナギ・イザナミの二神は共に夫婦と成り、大八州国(オオヤシマノクニ)および山川草木を生まれ、次に日の神と月の神を生まれ、その後に素戔嗚の神をうまれた。素戔嗚の神は常に泣き叫んでいた。

そのため、人は夭折し青山は枯れ山と成ったので、父母の二神は
「お前の行いは大変ひどい。早く根の国に退去しなさい。」
と命じられた。

また、天地が別れる初めに天で生まれた神は、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と言う。
次に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)古くは、多賀美武須比と言う。これは皇親神留伎命である。
次に神皇産霊神(カミムスビノカミ)これは皇親神留彌命の事で、この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の先祖で有る。

その高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)天祖の天津彦尊の母である。
生んだ男の名は天忍日命(アメノオシヒノミコト)大伴宿禰の先祖で有る。
生んだ男の名は天太玉命(アメノフトタマノミコト)斎部宿禰の先祖である。

太玉命の率いる神の名は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と言う。
阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖である。
手置帆負命(タオキホオイノミコト)讃岐の国の忌部の先祖である。
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)紀伊の国の忌部の先祖である。
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。

ここに、素戔嗚の神が日の神(天照大神)に別れを告げるために天に登ってきたとき櫛明玉命がお迎えし、瑞八坂瓊勾玉を献じた。素戔嗚の神はそれを受け取り日の神に献じた。
神は共に誓約をして、その玉より天祖の吾勝尊(アカツノミコト)が生まれた。
是をもって天照大神は吾勝尊を育てられた。甚だしく寵愛され常に腋の下に抱かれていた。
名付けて腋子と言う。今の世に幼児を名付けて和可古(ワカコ)と言うのは是が始まりで有る。
その後、素戔嗚の神が日の神に行った行為は、甚だ酷い事で種々の凌侮を行った。

所謂、畔を壊し古くは阿波那知(アハナチ)と言う、溝を埋め古くは美曽宇女(ミゾウメ)と言う、水門を開放し古くは斐波那知(ヒハナチ)という、種を重ねて撒き古くは志伎麻伎(シキマキ)と言う、田に櫛をさしたり古くは久志佐志(クシサシ)と言う、生き剥ぎ・逆剥ぎ・汚い物を撒き散らした。

この様な天罪を素戔嗚の神は日の神の耕し種を播く時期に密かに田に往き櫛を刺し、相争い種子を重ね播きし、畔を壊し溝を埋め水門を開け放った。新嘗の時に糞尿を戸に塗り、織室に生きた馬を逆剥ぎし室内に投げ入れた。この天罪は今、中臣の祓いの詞である。
蠺織の元は神代より起こっている。 
ここに、天照大神は激怒され天石窟(アメノイワヤ)に入られ磐戸を閇め幽居された。
国中が常に闇に包まれ昼と夜の区別がつかなくなった。群神は憂い迷い手足の置き所を知らず、総ての諸々の事を燭を燈して決済した。高皇産霊の神は八十萬(ヤソヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集めて、今後の方策を議論した。

ここに思兼神(オモイノカネノカミ)が深く考え遠く慮り

天太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、石凝姥神(イシコリドメノカミ)天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。
に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、長白羽神(ナガシロハノカミ)伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの事が始まりである。に麻で青和幣(アオニギテ)古くは爾伎弖を作らせ、天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。、天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)倭文の遠祖である。に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。

古くは爾伎多倍(ニギタヘ)と言う。櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ、手置帆負彦狭知の二神に天御量(アメノミハカリ)大小の量り雑器などの名である。大峡・小峡の木を伐り瑞殿を造り古くは美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う。

また、御笠と矛盾を作らせ、天目一箇神(アマノメヒトツカミ)種々の刀・斧・鐡鐸古くは佐那伎(サナギ)と言う。を作らせ、それらの物が揃ったら、天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)古くは佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、天太玉命に捧げ持たせて讃えさせ、また、天児屋命に相共に祈祷させ、また天鈿女命(アメノウズメノミコト)古くは天乃於須(アメノオスメ)と言う。

その神は強悍で勇ましかった。今の世に強い女性を於須女と言うのはこの事による。に真辟葛(マサキズラ)を鬘とし蘿葛(ヒカゲ)を手(タスキ)とし蘿葛は比可気(ヒカゲ)竹の葉・飫憇木(オケノキ)の葉を手草今は多久佐(タクサ)着鐸(サナギ)を付けた矛を手に持ち、石窟戸(イワヤド)の前に誓槽を伏せ古くは宇気布禰(ウケブネ)と言う。誓約の意味である。庭火を挙げ、俳優をを行い、相共に歌い舞わる。」と言った。

ここに、思兼神の謀通りに石凝り姥神に日像の鏡を鋳造させた。初めに鋳造した鏡は小さく意に合わなかった。これは紀伊の国の日前神(ヒノクマノカミ)である。次に鋳造した鏡はその状態が麗しかった。これは伊勢の大神である。謀り通りに設け備える事が終わった。

天太玉命は廣く篤い称え詞を申して
「私が持っている鏡は、明かりが輝いていて汝の命の様である。戸を開けてご覧になってください」と言った。天太玉命は天児屋命と共にその祈祷をした。

そのとき天照大神は心の中で
「このごろ、私が籠もって天下が真っ暗で有ると言うのに、群神は何故このように歌楽を楽しんでいるのだろう」と一人思われた。

戸を開けて覗き見されたとき、天手力雄神(アメノタチカラヲノカミ)にその扉を引き明けさせて、新殿に遷坐させた。天児屋命と天太玉命は日御綱(ヒノミツナ)を今の斯利久迷縄(シリクメナワ)。これは日影の像である。その殿に懸け廻らし大宮賣神(オオミヤメノカミ)を御前に侍わせこれは天太玉命が久志備に生んだ神である。今の世の内侍で善言や美詞で君臣の間を和らぎ宸襟を喜ばせる様な事である。豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)と櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)の二神に殿の門を守衛させた。これは両方とも天太玉命の子である。

この時に天上は初めて晴れ諸共が相見た顔はみな、明るく白かったので手を伸ばし歌い舞い、相共に讃えて
「阿波禮(アハレ)天が晴れる事を言う。阿那於茂志呂(アナオモシロ)古語事の大いに心を込めて皆、阿那(アナ)と讃えて言ったのは衆の顔が明るく白かったためである。阿那多能志(アナタノシ)言い手を伸ばして舞う。今は楽事をさして、これ多能志(タノシ)と言うのはこの意味である。阿那佐夜憩(アナサヤケ)竹の葉の聲である。飫憇(オケ)木の名である。その葉を振るわす調べである。」
と言った。
二神は共に「もう、お戻りになりませんように。」と言った。

素戔嗚の神に罪過を帰せ、千座置戸(チクラオキド)を科し、鬚・手足の爪を抜いて贖わせて、その罪を祓い天上より追放した。素戔嗚の神は天より出雲の国の簸之川上(ヒノカワカミ)に降、天十握剣(アメノトツカノツルギ)その名前は天羽羽斬(アマノハバキリ)と言う。今は石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)にあり、古くは大蛇の羽羽(ハバ)と言う。蛇を斬る事を言う。で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斬り、その尾の中から一つの霊剣を得て、その名を天叢雲(アメノムラクモ)と言う。大蛇の上に常に雲気が在った事から名前となった。倭武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の年に相模の国に至り野火の難に遇い、やがてこの剣で草を薙ぎ免れ得た事から草薙剣と言う。天神に献上した。

その後、素戔嗚の神は国神の娘を娶り大己貴神(オオナムチノカミ)古くは於保那武智神(オオナムチノカミ)と言う。を生んだ。そして、ついに根国に行かれた。

また、大己貴神またの名を大物主神(オオモノヌシノカミ)またの名を大国主神(オオクニヌシノカミ)またの名を大国魂神(オオクニタマノカミ)今、大和の国の城上(シキウエ)の郡の大三輪神(オオミワノカミ)である。は小彦名神(スクナヒコナノカミ)高皇産霊尊の子で常世に隠れられた。と共に力を併せ心を一つにして天下を経営した。蒼生畜産(ソウセイチクサン=人と獣)の為に病気を治す方法を定め、また鳥獣昆虫の災いを掃おうとして禁厭の法を定めて百姓は今に至るまでことごとく恩頼を蒙る。皆、効験が有った。

天祖の吾勝尊は高皇産霊神の娘の栲幡千千姫命を娶り天津彦尊を生んだ。皇孫命(コウソンノミコト)と言われる。天照大神・高皇産霊神の二神の孫の為、皇孫と言う。そうして、天照大神・高皇産霊尊は皇孫を天下らせて豊葦原中国(トヨアシハラナカツクニ)の君としようと思われた。

経津主神(フツヌシノカミ)この神は磐箇女神(イワフツメノカミ)の子。今、下総の国の香取(カトリ)の神がこの神で有る・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)この神は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)の子。今、常陸の国に鹿嶋のがこの神で有る。を遣わして、駆逐し平定させた。ここに大己貴神と事代主神は共に退去された。
退去されるときに国を平定した時に使用した矛を二神に授けて
「私はこの矛で国を平定した。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば必ず平安が来るであろう。今から私は退去する。」と言われて、その後、隠れられた。ここに二神は帰順しない悪しき神々を誅し、遂に復命した。
この時に天照大神・高皇産霊尊は語らい

「葦原瑞穂国は私の子孫が王と成るべき地で有る。皇孫よ行って治めなさい。天皇の位はが栄える事は天壌無窮であろう。」と言われた。

そして八咫鏡と草薙剣の二品の神宝を皇孫に授けられ、永く天璽所謂、神璽の剣と鏡がこれで有る。とされた。矛と玉は自ずから従った。そして、勅して

「我が子よ、この宝鏡を見るのは私を見るのと同じで有る。同じ床で同じ殿で斎鏡としなさい」
と言われた。
また、天児屋命・天太玉命・天鈿女命を配して侍らせ、勅して「私は天津神籬(アマツヒモロギ)神籬は古くは比茂呂伎と言う。および天津磐境(アマツイワキ)を立てる起こし、私の孫の為に斎奉るべきで有る。汝、天児屋命と天太玉命の二神は天津神籬を持って葦原中国に降り、また私の孫の為に斎奉りなさい。汝、二神も殿内に共に侍り、良くお守りしなさい。我が高天原の御斎庭(ユニワ)の穂是は稲穂である。を我が子に捧げなさい。

天太玉命は諸部の神を率いて、その職により共に仕え天上の儀の如くしなさい。」と言われた。

諸神も共に副え従えさせた。また、大物主神に勅して「八十萬の率いて永く皇孫の為にお守りしなさい」と言われた。

大伴の遠祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と来目部の遠祖の天槵津大来目を杖を帯び
先駆けさせた。

かくて、天降りする間に先駆けの者が還ってきて「一人の神が天之衢にいます。その鼻の長さは七咫、背の高さは七尺、口の端が輝き、目は八咫鏡のようです」と報告した。従う神を遣わして、その名前を問うたが八十萬の神は、みな名前を相見る事すら出来なかった。ここに天鈿女命は勅を受けて往き、胸を露にし裳帯を臍の下まで下してその神を見て嘲笑った。

その時に衢に居る神が「貴方は何故その様な事をするのです。」と問うた。

天鈿女命は「天孫が起こしに成る道に居るのは誰だ」と問うた。

衢に居る神は答えて「天孫が天降りされると聞いたので、お迎えしようと待っています。私の名は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)と言います。」と言った。

天鈿女命は再び問い「汝が先に行くか、私が先に行くか」と言った。

答えて「私が先に行きます。」と言った。

天鈿女命は再び問い「汝は何処に行くのか、天孫は何処に行くのか」と言った。

答えて「天孫は筑紫の日向の高千穂の○(木患)触の峯に至り、私は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に至る。」と言い、
また「私の名前を顕したのは貴方です。貴方は私を最後まで送って言ってください」と言った。

天鈿女命は戻って報告した。天孫は天降ろうとする時に猿田彦大神が言った様に乞うまま天鈿女命に最後まで送らせた。天鈿女命は猿女君の遠祖である。顕した神の名を氏姓にし、今は男も女も猿女君と名乗るここに群神は皆、勅を受けて天孫の歴代相助けその職に共に従った。

天祖彦火尊(ヒコホノミコト)は海神の娘の豊玉姫命を娶って、彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)を生んだ。生まれる日に海辺に室を建てる時に掃守連(カニモリノムラジ)の遠祖の天忍人命(アメノオシヒトノミコト)は共に仕えて箒を作り蟹を掃き、また鋪設を掌り、遂に職の名前として蟹守と言う。今の世では掃守と言うのはこの事が伝えられて居るためで有る。

神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の日臣命(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。

賀茂縣主(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので菟田の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。

天富命(アメトミノミコト)天太玉命の孫。手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、正殿を建てた。所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、高天原に届くほど高く御殿を造られた。その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居る。古くは正殿を麁香と言う。材を採取する斎部の居る所を御木と言い、殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしで有る。また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。造る。その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物をとその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布古くは阿良多倍と言う。と共に進貢した。天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。

その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元で有る。天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。古くは麻を總と言う。今の上總・下總のに国がこれで有る。阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)今の安房の国がこれで有る。と言う。天富命はやがてその地に天太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。

その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。皇天二祖の詔のままに神籬を建てた。所謂、高皇産霊、神皇産霊(カミムスビ)、魂留産霊(タマツメムスビ)、生産霊(イクムスビ)、足産霊(タルムスビ)、大宮賣神(オオミヤメノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)、御膳神(ミケツノカミ)巳上、今、御座の斎祭るところで有る、櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)、豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)巳上、今、御門の斎祭るところである。
 
生嶋(イクシマ)是は大八州(オオヤシマ)の霊で今、生嶋の坐の斎祭るところで有る。坐摩(イカスリ)是は
大宮地(オオミヤドコロ)の霊で今、坐摩の坐の斎祭るところである。


日臣命は来目部を率いて宮門を守りその開閉を掌る。饒速日命は内物部を率いて矛楯を造り、そのもの既に備わった。天富命は諸斎部を率いて天の璽の鏡と剣を捧げ持ち正殿に安置して共に瓊玉を懸けて、その幣物を陳列して殿祭りの祝詞した。その祝詞の文は別巻に有る。次に宮門を
祭る。その祝詞の文もまた別巻に有る。その後、物部は矛楯を立て、大伴来目は杖を建てて門を開け、
四方の国に朝廷と天位の貴い事を示させた。この時に帝と神の距離は遠くなく同じ殿で床を共にされていて、是を常とされていた。故に神物も官物も未だ分別されていなかった。

宮内に蔵を建て斎蔵(イミクラ)と名付けて斎部氏を永くその職に任じた。また、天富命は物を作る諸氏を率いて大幣を作らせた。天種子命(アメノタネコノミコト)天児屋命の孫である。は
天罪国罪(アマツツミクニツツミ)所謂、天罪とは神が既に犯した罪、国罪とは国中の人民が犯した罪の事
で有る。中臣の禊の詞に有る。を祓い、即ち鳥見山(トミノヤマ)の山中に祭り所を建て天富命が幣を
陳列し祝詞をして皇天に祭り、遍く諸々の祭りを行い、神祇の恩に答えた。

是ゆえに
中臣・斎部の二氏は伴に祠祀に関する職を掌った。猿女君の氏は神楽の事により仕えた。
この他の諸氏も各々の職が有った。

磯城瑞籬(シキミズガキ)の帝(崇神天皇)の時代になって、暫くして、神威を畏れられ、同じ
殿に居られると不安で有るため、斎部氏に石凝姥神(イシコリドメノカミ)の末裔と天一箇神
(アメヒトツノカミ)の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。是を護身の御璽と
された。是が今、践祚の日に獻、神の御璽の鏡と剣である。倭の笠縫邑に磯城の神籬を立てて
天照大神と草薙剣を遷した。皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に斎奉らせた。
その遷した日の夕方、宮人は皆集まり終夜、宴を開き楽で歌った。いわく

「宮人の大夜すがらに、いざとおし。ゆきのよろしもなお、よすがらに」
─ 今の世に歌って言うには、宮人の大よそ衣、膝通し、ゆきよろしも大よそ衣の歌の伝である。 
また六年八十萬の神たちを祭って天社国社及び神地(カムドコロ)・神戸(カムベ)を定めた。
初めて男の弭(ユハズ)の調弓矢などで取った獲物と女の手末(タナスエ)の調女性の手で作った絹の
布などを貢がせた。いま、神祇の祭りに熊の皮・鹿の皮・角・布などを用いるのは是が元である。

巻向玉白朝(まきむくのたまきのみかど=崇神天皇)は皇女倭姫命(やまとひめのみこと)天皇の
第二皇女。母は皇后の狭穂姫に命じて天照大神を斎奉らせた。皇女は神の教えの通りに伊勢国の
五十鈴の川原に社を建てた。よって斎宮(いつきのみや)を立て、倭姫命を住まわせた。

始め天上に折られるとき予め深い契りを結び、衢の神が先ずこの地に降ったのには深いわけが
あった。そして、この御世に初めて弓矢刀を以て神祇を祭り、さらに神地・神戸を定めた。

また、新羅の王子の海檜槍(アマノヒボコ)が来たり、今、但馬国の出石郡(イヅシコオリ)
に大社を作った。

纏向日代朝(マキムクヒシロノミカド=景行天皇)は日本武命(ヤマトタケルノミコト)に東夷を
征討させた。命は行く途中に伊勢神宮に詣でて倭姫命に会った。草薙剣を日本武命に授けて教えて言うには
「慎重に怠るな」。

日本武命は既に東夷を平らげ尾張の国に還られた。宮簀媛を娶って久しく留まられ月を経て
剣を解き家において徒歩で伊吹山に登られ毒にあたって亡くなられた。その草薙剣は今は
尾張の国の熱田社に在る。未だ礼典あらず。

磐余稚櫻朝(いわれわかさくらのみかど=神功皇后)に至り住吉大神が現れ新羅を討ち給い
三韓は始めて朝貢した百済国王は懇ろにその誠実さを表し、ついに異心を抱く事がなかった。

軽島豊明朝(カルシマノトヨアケノミカド=応神天皇)に至り、百済王は博士の王仁を奉った。
王仁は河内の文首(フミノオビト)の始祖である。秦公(はたのきみ)の先祖の弓月(ユヅ)は
百二十県余りの民を率いて帰化し、漢値(アヤノアタイ)の先祖の阿知使主(アチノオミ)は
十七県余りの民を率いて来朝した。ついに秦・漢・百済より信服した民は各々万をもって数え
られ、褒賞するに足りる。みなその祠が有ったけれども未だ幣例を預かる事はなかった。

後磐余稚桜朝(ノチノワカサクラノミカド=仁徳天皇)の世になって、三韓は貢物を奉る事は
絶えなかった。斎蔵の傍らに更に内蔵を建てて、公のものを分別して収め始めて阿知使主と
百済博士王仁にその入出状況を記録させ、更に蔵部を定めた。

長谷朝倉朝(ハツセノアサクラノミカド=雄略天皇)に至って、秦氏を分散して他の一族にそれ
ぞれ隷属させられていた。秦酒公(ハタノサケノキミ)は進んで仕え寵愛を受け、秦氏を集めて、
酒公に賜う詔を受けた。かれは百八十種の勝部を率いて蚕を飼い、織物を織り、貢物を奉って
庭中に積み上げた。それにより、宇豆麻佐(ウヅマサ)と言う姓を賜った。宇豆麻佐(ウヅマサ)と
言うのは貢物を積むままに埋もれた事である。奉るところの絹・綿が肌膚(はだへ)に柔らかで故に秦の字を読んで
之を波陀(ハダ)と言う。また、秦氏の奉る所の絹を以て神を祭る剣の柄を巻き、今の世にも猶然り。いわゆる秦の
機織の起こりである。かくて、後の国々貢物を奉る年毎にあふれ、更に大蔵を立てて蘇我麻智宿禰
(ソガノマチノスクネ)に三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を調べさせた。秦氏の其の物を出納し東西の
文氏が記録するその帳簿を勘案し、この故に漢氏に姓を賜い内蔵・大蔵となし、秦・漢の二氏を
内蔵大蔵の鍵の司とした。蔵部の起こりである。

小治田朝(オハリダノミカド=推古天皇)に至り太玉命の末裔は絶えず、帯のごとく天恩をうけ
廃たのを興し、途絶えたのを継げはつかにその職に仕えた。

難波長柄豊前朝(ナニハナガラノトヨサキノミカド=孝徳天皇)白雉四年に至り小華下諱は
斎部首作賀斯(イミベノオビトサカシ)を以て神官の頭に召して(今の神祇伯である)王族・宮内・
禮儀・婚姻・卜筮の事を司らせ、夏冬の二季に御卜之式(ミウラノノリ)をこの時より始めた。
作賀斯の子孫はその職を得ることが出来ず、衰えて今に至る。

浄御原朝(キヨミハラノミカド=天武天皇)に至って、天下の姓を改め八等にわけた。その年の
功績のみ評価し、天降りの功績は評価されなかった。その二つ目に朝臣と言う。これを中臣氏に
賜い、詔をして太刀を賜う。その三つ目に宿禰と言う。これを斎部氏に賜い、詔をして小刀を賜う。
その四つ目に忌寸と言う。これを秦・漢の二氏に賜り、百済文氏(クダラノフミウジ)等の姓とした
けだし、斎部と共に斎蔵の事を預かった事により姓とした。今、東文氏・西文氏が祓いの太刀を獻のは、けだし、この故による。
大宝年間に至り、初めて記録したが、神祇の記録は猶、明確にされた物が無く、祭の禮その方法は未だに整わなかった。
天平年間に至り、神名帳を考えて造った。中臣が専断し勝手に取捨し、故ある者は小祀であってもみな記載され、縁の無い者は大社でも廃された。その奏施は当時、欲しいままに行い諸社の封税
全てが一門に入った。天降りの時より起こり、東征に及ぶまで臣従した群神の名は国史に現れたのは、或いは皇天の厳命を受けて天孫の護衛となり、或いは昌運の洪啓に遭い神器の大造を助ける。そうであるなら、功を記録し苦労に酬いるに至っては均しく祀典に預かるべきである。或いは未だに幣物の分け前に預からず。猶、介推の恨みを抱く。ましてや、草薙の神剣はいみじくも天璽である。日本武尊が凱旋された年より留まって、尾張国熱田社にある。外賊が討伐されてこの方、国より出なかった。神物の霊験はこの様な事を見なければならない。そうであるなら、幣を奉の日に同じく敬い祀るべきであるのに、昔からもれている。その禮を修めないのは忘れられたところの一つで有る。

それ、先祖を尊び貴い者を敬うのは禮の教の最初とするところで有る。すなわち、聖皇登極(アマツヒツギシロシメス)は父祖を受け継ぎ上帝を祭り六宗を祭り山川を祭り群神を遍くする。

そうであるなら、天照大神は惟祖惟宗であら貴い方であり類なく、大神以外の諸神はすなわち子であり臣である。誰が敢えて抗うことが出来るだろうか。そうであるのに、今、神祇官の幣を分配する日、諸神の後に伊勢神宮をするのは忘れられた事の二つ目である。

天照大神は元々帝と同じ殿にあられて仕え奉る義は君も神も一体であった。天上より始めて中臣・斎部二氏は相伴に日神にのみ奉る。猿女の先祖も神の怒りを解いた。そうであるなら、
三氏の職は離れるべきではない。然るに今、伊勢宮司は中臣氏のみ就けて、二氏は預かる事が出来ない。忘れられた事の三つ目である。

全て神殿を造り奉るのは皆神代の職に依るべきである。斎部の官は御木・麁香の二郷の斎部を率いて切るのに斎斧をもってし、掘るのに斎鋤をもってする。そののち、工夫等は手を下ろし
造り終わった後に斎部が殿祭及び門祭を行い、その後、御坐べきである。しかるに、伊勢宮及び大嘗の由紀主基宮を造るとき皆斎部は預からなかった。忘れられたところの四つ目である。

また、殿祭・門祭は元々天太玉命の仕え奉った儀である。斎部氏の職とする所である。然れども、中臣・斎部共に神祇官に任じられて相共に仕え奉る。ゆえに宮内省が奏じた言葉に御殿祭仕え奉らんとして中臣・斎部は帝に候と申す。宝亀年間に至りて始めて宮内少輔従五位下中臣朝臣は
常に恣意的に奏する言葉を改めて、中臣斎部を率いて帝に候と言った。それは省さながらにして、永く後の例として未だに改められていない。忘れられたところの五つ目である。
また、神代より始めて中臣・斎部は神事に仕え祭りて、差はなかった。中頃よりこの方、権勢は一氏に移る。斎宮寮主神司の中臣・斎部は元々同等で七位官であった。然るに延暦の初め朝原内親王が斎奉る日に殊に斎部を降格し、八位官にした。今に至るも復位で来ていない。
忘れられたところの六つ目である。

凡そ諸神に幣を奉るは中臣・斎部共にその事に預かった。しかし今は、太宰主神司は独り中臣が任じられ斎部は預かる事がない。忘れられたところの七つ目である。

諸国の大社も中臣を任じて斎部は預かる事がない。忘れられた所の八つ目である。
全ての鎮魂の儀は天鈿女命の遺跡である。奏であるなら、御巫の職は旧氏を任ずべきである。
そうであるのに今は他の氏を任じている。忘れられた事の九つ目である。

全ての大幣を造る者は神代の職に依るべきである。斎部の官は供を作る諸氏を率いて例に准じ
造り備えた。そうであるなら、神祇官の神部を中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏で有るべきである。然るに今は中臣・斎部等の二三の氏ののみがあり、それ以外の氏は
考選に預かる事はない。神の裔の散り失せて、その裔が絶えようとしている。忘れられたところの十目である。

また、勝宝九歳、左辨官の口宣に今より以後は伊勢大神宮の幣帛使いは専ら中臣を用いて他の姓を用いる事はならないと言った。それは行われなかったけれども猶、前例となり記されて司は削り捨てなかった。忘れられた事の十一である。

昔、神代に大地主神(おおとこぬしのかみ)田を作ろうとした日に牛の宍を田人に食べさせた。
そのとき御歳神(みどしのかみ)の子その田に来て饗に唾ををして帰って父にその有様を告げた。
御歳神は怒りを発して、その田に宇名後を放って苗葉をたちまちに枯れそこなわせて篠竹と
なした。ここに大地主神は片巫(カタカムナギ)志止止鳥(シトトトリ)肘巫(ヒジカムナギ)今の世の竃の
輪又は米占である。その故を占いで問うた。御歳神の祟りの為、白猪・白馬・白鶏を献じて、その怒りを解きなさいとでた。教えのままに御歳神に謝罪し奉った。答え賜り、

「実に私の思いである。麻柄を以て働き作り働け」すなわち、その葉を以て掃い天押草を持って
それを押し、烏扇を以て扇げ。もし隠して出て去らないようなら、牛の宍を以て溝口に置いて男茎
の形を作り、以てそれに添えて これは、その怒りをもって厭所である。つすのみ・なるはしかみ・胡桃葉
及び塩を以て置き賜うその畔に分け 古事につすを以て都須と言う。」

彼、その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀も豊かに実った。これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。

前件の神代の事説は盤古に似ている。氷を疑うの意は信を取るのは真に難しい。しかもわが国家は神物霊と言えども、今皆見存している事に触れて聞く事がある、嘘と言うべからず。
ただ、中古は猶、うって礼楽未だ明らかになっていない。事を制し法を垂れる事は遺漏が多い。
聖運は初めて開けて尭暉を八州に照らし、宝暦ただ新たに舜波を四海に蕩かす。鄙俗を往代に変え、秕政を当年に改め時に従って制を垂れ、万葉の英風を伝え、廃れるを興し絶えたるを
継ぎ、千載の闕典を補い、もしこの造式の歳にあて、かの望みである秩序の礼を制し、密かに恐れる。後の今を見て、今の古を見るかならんを。愚臣廣成朽万の齢で既に八十を越えた。
犬馬の労をただ、暮に彌く切なり。たちまち死去してしまえば、恨みを地下に含む。巷の談も猶、取るべき物もあり。庸夫の思いも徒に捨て易からず。幸いに求訪の休運にあい、深く口実の堕ちないのを喜ぶ。願わくばその文の高く達して天鑒の曲照を被らん事を。

大同三年二月十三日
 

拳拳服膺
[歴史のページ]より抜粋


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(122)讃史-伝説と神社 【35.山崎 氏】

 寛永十八(1642)年九月にが西讃五万三千石を領して、丸亀に居城し、俊家・治頼に至る明暦三(1658)年まで十七年間西讃を領した。

多度郡・三野郡・豊田郡。
那珂郡の中地方・中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七ヶ村。
鵜足郡の中土居。


山崎家断絶の後、万治元年京極氏が西讃を領するまでは、多羅尾九右衛門・下曽根三十郎等がその闕所を治めた。


             -縣神社史より

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(121)讃史-伝説と神社 【34.青山・一柳・松平・加藤】

 生駒家没落の寛永十七(1640)年,青山大蔵大輔幸成は城受け取りの為、来讃し国中を巡歴して同十八(1641)年十月まで国政を司り、一柳丹後守直重は、寛永十七(1640)年九月から同十九(1642)年四月まで大内・寒川・三木・山田・香東の五郡を預かり、松平美作守定房は同期間香西・南條・北條・鵜足の四郡を預かり治めた。

 また、加藤出羽守泰興は寛永十七年から同十八年七月まで那珂・多度・三野・豊田の四郡を預かっていた。

             -縣神社史より

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(120)讃史-伝説と神社 【33.生駒氏】

 天正十五(1587)年、生駒雅楽頭親正が讃岐に受封して引田城に入り、高松城を築き、一正・正俊・高俊を経て寛永十七(1640)年に至る五十余年間当国を治めた。

 生駒家分限帳に表示されている当国神社の社領は金刀比羅宮の三百三十石を筆頭に、小は仲多度郡南村素盞神社の八斗に至る四十数社が見えている。

 神社の社領は古くから国主・領主の寄進があり戦国時代でも各々の領主はその領内の神社に神領・社領を寄進してきたもので、生駒氏もこれに習った。

                  -縣神社史より



生駒親正
生駒親正

※生駒藩の初代は生駒親正という。雅楽頭(うたのかみ)と呼ばれた。天正十四年、伊勢の神戸三万石から播州赤穂六万石に移封された。翌十五年に讃岐一国を賜り、いったん引田城に入った。ここでは便利が悪いので、宇多津の聖通寺城に引っ越した。先任の仙石権兵衛が居城とした山城である。ここも山の上であるうえ、讃岐の中央より西に偏していた。そこで天正十六年、香川郡箆原郷(野原庄)に新城を築き、ここに移った。これが、高松城。しかし、西讃岐のことが気にかかるので、亀山に支城を築いた。丸亀城である。高松・丸亀両市にとって開創の先覚者である。

※生駒家は、大和国生駒郡が発祥の地、美濃国に移り、木下藤吉郎時代から秀吉に仕えた。太閤子飼いの大名でした。
 関ヶ原の役に、親正は西軍の石田光成に味方した。子の左近一正は数十騎(1830名)を従えて東軍の徳川家康に従った。父子が、東西に分かれたのは、真田昌幸・信幸とこの生駒家の両家である。父はともに智謀の人であった。
 生駒一正はどもりであった。西軍石田光成の家老で勇名高い島左近らが一文字に突っ込み、金森長近・田中吉政両軍が退きかけた。一正は、どもりながらも采配を振るい、大いに働いて猛将島左近を退却させたと『廃乱記』にある。後に、その戦功は高く評価された。
 一正は、軍功に代えても・・・・・と父の助命を嘆願した。家康は承知し、讃岐一国を安堵させた。親正は、敗れて高野山に登り頭を丸めた。法号は弘憲。許されても山を下りず、ここで没した。彼は、秀吉の三中老の一人を務めた謀将であった。子の一正の為、大事をとって下山しなかったのだろう。

               ―讃岐歴史散歩よりー


島左近とは、「三成にすぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」といわれた石田光成の家老。文人の光成が四万石を賜った折、三顧の礼をもって一万五千石で家老として召抱える。

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(119)讃史-伝説と神社 【32.讃岐豪族の滅亡】

 永禄・元亀・天正の間に讃岐の豪族は殆ど滅亡した。天正十三年に豊臣秀吉が四国を平定するにあたり、長曽我部氏に属した者は、ことごとく城や領地を没収・没落し、仙石権兵衛秀久が讃岐に封ぜられた時、ひとり十河氏だけが山田郡で二万石を認められたが、仙石氏に従い島津氏と戦い、安富・羽床氏と共に戦死、讃岐の豪族はいなくなった。

 仙石氏は、この罪で高野山に廃嫡、尾藤甚左衛門が当国を領したが、天正十五年豊臣秀吉の島津氏追討に従って罪を得、讃岐を没収せれ、生駒雅楽頭親正がこれに代わった。

             -縣神社史より

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(118)讃史-伝説と神社 【31.長曽我部氏の侵略】

 細川氏の衰退で、阿波の三好氏 は讃岐を侵略したが、当時の讃岐の諸将は大内氏や織田氏を頼みとし、最終的には長曽我部氏の侵略に遭う。

永禄・元亀・天正(1558~1592)年間、讃岐の国は戦乱の巷でした。

長曽我部元親は、天正六(1578)年西讃に攻め入ってから、数度にわたり当国に侵入、天正十一(1583)年ついに讃岐全土を平定した。

 当国の社寺は、多くこのとき兵火に遭い社殿当記等を焼失している。元親の戦略は、威嚇と和睦にあり、放火は威嚇に相当効果があった。威嚇して、和睦し本領を安堵し、それを先陣に使い、侵略を続けた。

 阿波でも同様だが、里人が産土神社を八幡神社であると云えば、焼かなかったと当国でも云っている。しかし、八幡神社でも兵火にかかったものもある。

◆「長曽我部」という姓は、現在高知県にも存在しない。「長曽我部」が「曽我部」一族の長(おさ)という意味があるからで、飯田郷の飯田主水正の正(しょう)も同様に使われる。

               -縣神社史より


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(117)讃史-伝説と神社 【30.細川氏被官】

 安富氏香西氏奈良氏香川氏の四氏は、細川四天王と称され当国を分領した。

細川頼之の頃から天正年間に至る二百年間】 
当時に於ける各郡の領主を挙げると

寒川氏=大内郡・寒川郡・小豆郡
安富氏=三木郡・寒川郡
三木氏=三木郡
植田氏・三谷氏・神内氏・十河氏=山田郡
香西氏=香川郡・阿野郡
藤原氏・橘氏・奈良氏=鵜足郡・那珂郡
香川氏・詫間氏=多度郡・三野郡・豊田郡
長尾氏=豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡・鵜足郡・阿野郡

   その他、香川郡には、由佐氏、阿野郡には羽床氏らがいた。

 応仁の乱後、細川氏の家督争いが起こると、阿波の三好氏が十河氏と組んで、盛んに讃岐に侵入。


【讃岐通史によると応仁の乱の頃の讃岐の分治の表】

安富氏
   寒川氏=小豆郡・大川郡・寒川郡
   直領 =三木郡
   植田氏=山田郡
   香西氏=香東郡・香西郡・綾北条郡・綾南条郡
香川氏
   奈良氏=鵜足郡・那珂郡
   直領 =多度郡・三野郡・豊田郡

以上、安富氏香川氏が最も強大であったことを示している。
諸氏は、それぞれ領内の神社と密接な関係があった。

                -縣神社史より
   

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tag : 細川頼之 安富氏 香西氏 奈良氏 香川氏 由佐氏 羽床氏 寒川氏 植田氏

(116)讃史-伝説と神社 【29.南北朝】

 足利尊氏の叛乱に乗じて讃岐では細川定禅がこれに応じ、守護舟木頼重を破って勢い付き京都に攻め入った。

 尊氏西走の後、延元元(1336)年東上すると、定禅もこれに加わった。此の時讃岐は綾歌郡長尾城に、南朝方の中院源少将が居て、同郡の羽床氏、木田郡の十河氏・三木氏・三谷氏、小豆郡の佐々木氏らも、脇屋義助が伊予に来ることで強大となったが、義助がまもなく病死して勢いがなくなり、細川頼春が統一することになる。

 脇屋義助の臣、安藤村重及びその弟村久は、三豊郡に入り、兄村重は二村 村社春日神社を、弟村久は上高瀬村 郷社新田神社を創建した。

 また大川郡丹生東山の地には脇屋義治、篠塚伊賀守の来住を伝えている。

 細川清氏が南朝方に就いた時、前記の讃岐南朝方もこれに応じ、一時勢いが強大となったものの、貞治元(1362)年清氏は白峰で細川頼之と戦い敗死し、当国はことごとく頼之が平定することになる。

 細川頼之は香川郡由佐村に居城『岡館』を営み四国を平定した。讃岐の史書の多くが北朝の元号を用いているのはこのためで、頼之・頼元・満元・持之・勝元・政元らが永きに渡り当国に勢いを振るった。

 ところが、政元の子がなく澄之・高国・澄元の三子を養ったことから、細川氏は内紛を生じ、三好氏が勢力を振るうに至る。

 細川頼之は、人物識見共に卓越しており、敬神の念が厚く、讃岐の神社で頼之の崇敬を受けたものは大変多い。

 頼之に関係のある神社を挙げると、
    国幣中社   田村神社 ・ 高松市 県社石清尾八幡神社
    香川郡  県社冠纓神社 ・ 大野村 村社石清水八幡神社
    木田郡西植田村 郷社藤尾八幡神社
    綾歌郡林田村 郷社総社神社
       土器村 郷社田潮八幡神社
    三豊郡仁尾町 郷社賀茂神社   などでその他多数に及ぶ。

 さらに、香川郡にはその居城『岡館』があったので頼之崇敬の神社が多く、岡館の四方権現八方荒神等が有名であるが、今その神社が判明しないものが多い。

               -縣神社史より

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tag : 南北朝 足利尊氏 細川定禅 舟木頼重 脇屋義助 細川清氏 細川頼之

(115)讃史-伝説と神社 【28.護良親王と宗良親王】

 元弘の変に際し大塔宮護良親王は紀伊熊野から遁れて大川郡に潜行せられ与田山の地に入られ、里人の佐伯季国が親王を奉じて虎丸城にこもったことを、福栄村 村社与田神社が伝え、佐伯季国は同村所主神社に祀られており、付近には親王に随従の臣を祀ったという神社が数社ある。

 護良親王の弟の宗良親王は当国に御配流となり、三豊郡詫間村に着かせられ、同村郷社 浪打八幡神社の社僧が日々のお相手をしたと伝えられ、さらに同郡 勝間村にお移りあり両村及び此の地二村にご遺趾が残っている。親王は、後に綾歌郡松山に遷らせられた。

                -縣神社史より

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tag : 護良親王 宗良親王 佐伯季国 与田神社 元弘の変 浪打八幡神社 詫間

(114)讃史-伝説と神社 【27.源平・屋島の戦い】

 元暦二(1184)年『源義経』は屋島に立てこもった平家を攻め、平氏はここでも敗れ、後に長門の壇ノ浦で滅亡する。

 この役で讃岐は源氏に応じた。

 この戦いに関する神社には木田郡屋島町 壇浦神社があり安徳天皇を奉齋し、仲多度郡本島村 村社徳玉神社もまた天皇を奉齋している。

 三豊郡県社 大水上神社には源平二氏の願状があり異論の多いものであるが又しかく有名である。同社には、平家奉納の武器などを賨物として蔵し、境内には平家四将を祀った神社もある。

 この他、香川郡安原村 村社平尾神社、三豊郡観音寺町 県社琴弾神社にも屋島の役を伝え、三豊郡五郷村 有木の村社三部神社には『平有盛』奉納の太刀があり、霊異ありしことを『生駒記』が載せている。

 この役によって源氏の勢力は国内に充満し、当国に「八幡神社」の頗る多いのは、貞観以後に八幡神社崇敬が行われた関係にもよるが、これ程源氏の勢力が蔓延したのも深い関係がある。

                -縣神社史より

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