(9)讃岐一宮田村神社 うつぎ社

宇都伎社
ご祭神は、大地主神(おほとこぬしのかみ)と倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
田村神社は地元では一宮さん・定水大明神と呼ばれ、社伝によると和銅2年(709年)に勧請した。奥殿の下には、古代から雨の少ない讃岐において農耕に必要な定水が得られた「底なしの淵」と呼ばれる湧井がある。本殿東側には、祭神のももそ姫がごやを召し上がり過ぎ腹痛になった折、着物の袂で井戸水を掬って飲ませると痛みが治まったと伝えられる「袂井」や本殿西側には姫が大和の国にお帰りになった後「花の井」の水を汲み花を生け、姫の代わりにあがめたと云われている。地元では、正月に、おみずはつほ(御神水)をいただき御歳神にお供えしている風習が今も続いている。お祭の時のお旅所は、天降(あまくだり)神社(香川町大野)まで参道が続いていたが、琴電の開通により今は、線路の北側の大楠までが参道として残っている。
倭迹迹日百襲姫命(ももそ姫)は、大和の国から八歳の時讃岐の引田(安戸の浦)に着き、御殿を水主に造営(今の水主神社)。この地で土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈も行なった。ももそ姫の働きにより東夷の支配下であった讃岐東部は大和国の勢力下として安定してきた。
その後、讃岐全体に大和国が影響力を持つため、讃岐の中央に移り仏生山の船岡神社に滞在した後、一宮の田村神社に住まいを移し食料の安定確保のため、ため池を作り、新しい農地を開発し、祭祀を行っていたが、雌雄島に本拠を置く、瀬戸内の海賊が中笠居の海賊城を出城に上笠井の鬼無まで侵入してきたため、吉備の国平定にあたっていた弟の五十狭芹彦命・稚武彦命兄弟(吉備津彦命)に女木・男木島の海賊退治を依頼、これを撃退した。ももそ姫は、一宮の地で新しい農地を開発し、農業技術を進化させ、祭祀を行ったため、当国農業殖産の開祖神として祀られた。
倭迹迹日百襲姫命(ももそ姫)は、大和の国から八歳の時讃岐の引田(安戸の浦)に着き、御殿を水主に造営(今の水主神社)。この地で土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈も行なった。ももそ姫の働きにより東夷の支配下であった讃岐東部は大和国の勢力下として安定してきた。
その後、讃岐全体に大和国が影響力を持つため、讃岐の中央に移り仏生山の船岡神社に滞在した後、一宮の田村神社に住まいを移し食料の安定確保のため、ため池を作り、新しい農地を開発し、祭祀を行っていたが、雌雄島に本拠を置く、瀬戸内の海賊が中笠居の海賊城を出城に上笠井の鬼無まで侵入してきたため、吉備の国平定にあたっていた弟の五十狭芹彦命・稚武彦命兄弟(吉備津彦命)に女木・男木島の海賊退治を依頼、これを撃退した。ももそ姫は、一宮の地で新しい農地を開発し、農業技術を進化させ、祭祀を行ったため、当国農業殖産の開祖神として祀られた。
