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(219)讃岐國三宮 多和神社

日の丸

延喜式内社 郷社 讃岐三宮 多和神社
さぬき市志度121 (志度町大字志度字越窓)
多和神社
社記によれば、神代の昔『速秋津姫命』多和の渚に来りまして、この水門(みなと)は潮いと深くして、我が心須美戸と宣ひ此処に止まり給ふ。
多和神社
一の鳥居
速秋津姫命』この地を去るに及びて土人「大久支古」に眞澄鏡を授け給ひて、こを我が御魂と取託て多和の水門を祓戸と定め、國人此処に集ひて祓せば犯せる罪も自ら失せなむ。
多和神社
また、沖行く五百船千船を守らむと宣たまひき。
多和神社
二の鳥居
ここに其の御鏡を御魂實として多和大神と鎮めましきと云ふ。
多和神社
志度の地、古くは多和と称し、玉の浦は多和の浦の轉訛にして、讃留霊記の附録にも多和神社志度村多和志度舊名なりとある。
多和神社
随身門
左 神像   右 神像
阿吽の神像

多和神社
三の鳥居

多和神社
参道

多和神社
拝殿

多和神社   多和神社

多和神社   多和神社
ご祭神 
速秋津姫命

相殿
大鞆和氣命
帯仲津彦命
天照大日孁尊
息長帯姫命
大雀尊
倭武尊

寛平六年(895)、大祝讃岐朝臣春雄が神託によりて相殿六柱の神を奉齋してより多和八幡宮と称する。
当初、志度寺の傍ら(現弁天宮)に鎮座していたが、文明11年(1479)兵火により焼失、元和九年現今の地に遷座する。寛文11年(1671)高松藩主松平頼重公が志度寺再興に際して現在の鎮座地に社殿を新営し遷宮された。

多和神社
遷座以前、当所には連岳神社が鎮座しており合祀する。 
多和神社

十二の境内神社、二十七の境外末社があり神域面積21000平方メートルに及ぶ。

多和神社(地神さん)
地神(じじん)さんは、自然石を積み上げて造った「箱石」、平たい「雲石」、「台石」を下から順に重ね、その上に五柱の農業守護神の天照大神・大己貴命・少彦名命・埴安媛命(はにやすひめ)・倉稲魂命(うかのみたま)の名を刻んだ五角柱の心石(地神さんの「御神体」)を祀る。
天照大神が、北を向きそこから時計回りに神々が配される。

多和神社から志度湾(玉の浦)を望む
多和神社から志度湾(玉の浦)

房前から志度湾を望む
房前の鼻から志度湾を望む




こんぴら船々
手置帆負神(讃岐忌部の祖):地鎮祭の建築の神
手置帆負神は古事記の中に出てくる神様で、天の岩の宮殿の造営にあたり、日本に下っては大国主命(オオクニヌシノミコト)の笠縫として奉仕せられた方です。手置帆負神を文字通り解釈すれば、帆掛け舟の帆を立てる神様です。 船に帆を張り、それを背にして(帆を負って)、オールを漕がない(手は使わず置いている) こうした船の使い手だったそうです。
「金毘羅船々おい手に帆かけてシュラ・シュシュシュ」の廻り歌を思い出します。その舟つくりの技を活かして家も作った。 今でも建築の棟上式には、必ず呼び出される大工の神様で、航海安全の神様です。

讃岐と竿竹とちょうさ
古語拾遺にある八百竹の貢進の話
讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる『古語拾遺』(807)には、[大和で矛竿を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた]と書かれています。大和と讃岐にいた手置帆負命神(讃岐国造、建築の神様)。天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(木の神・たおきほおい)と彦狭知(土の神・ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を造営しました。
これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原の千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日です。
讃岐真竹

ちょうさ祭り』・・・・・・・・・・長竿祭り
  志度に始まるちょうさ祭りは各地区が飾りを競って神社に奉納しているが、昔は、『太鼓台』の前に長竿でのぼりをあげ、どの地区の『太鼓台』であるかを誇示していたそうです。いまでは、のぼりがなくなり、現在の『太鼓台』が『ちょうさ』とよばれるようになったとの事です。その後、三豊地区に伝わり、讃岐三白の綿で潤ったこの地区の『ちょうさ祭り』は、『布団ぢょうさ』とも云われ、一台数千万から一億円とも云われる太鼓台を持つ、現在の華やかな形となります。『ちょうさ祭り』は、讃岐から端を発するお祭りの名前だったのです。
―--―--― 多和神社(松岡宮司)のお話から




海女の玉取り伝説 (藤原不比等物語)

  ↓
 海女玉取り物語
今から1300年の昔 、大職冠(たいしょくかん)藤原鎌足公が、この世を去った時のことです。
 当時、海の向こう唐の国の皇帝・高宗の妃となっていた鎌足の娘(白光びゃっこう)は、父の死を嘆き悲しみ、せめて父の霊前に供えようと、唐の宮廷に伝わる『花原磬』(かげんけい)・『洫浜石』(しひんせき)・『面向不背の珠』(めんこうふはい)の三つの宝物をはるばると船に乗せて送ってきました。
 ところが、その船がさぬき志度の浦の沖合いにさしかかった時、一天にわかに掻き曇り、波が立ち騒ぎ、あれよあれよと驚くうちに波間から姿を現した竜神が、宝物の一つ『面向不背の珠』を打ちつかみ海底深く沈んでしまいました。
それから10年、鎌足の息子藤原不比等は、その玉を奪い返すために、『淡海』と名乗り、身分を隠して志度の浦へと下って来ました。そして、眉目美しい海女『玉藻』と契りを結び、ついにその本心を打ち明けて助けを乞いました。今は、不比等との間に一子『房前』という子供までもうけている海女『玉藻』の驚きは如何ばかりだったでしょう。愛する夫のために悲しい決意を胸の奥深く秘めた海女は、ただ一筋の命綱を頼りに、海底深く竜宮へ偲び寄ったのです。そして、『面向不背の珠』を見つけましたが、その玉は竜神に守られていて、なかなか取り返せません。激しい水中の戦いの揚句、ようやく珠を取り返し持っていた短刀で乳の下をかききり、珠を隠し海上に浮かび上がりました。
 しかし、夫の手に『面向不背の珠』を渡し、子供の行く末を頼むと良き途絶えてしまったのです。
 不比等は、玉藻の心根をふびんに思い、遺体を志度寺に埋葬しこの地を『死渡の道場』と名付け霊を弔い、子供を連れて都に帰りました。この子供が後の藤原四家のなかで一番繁栄した北家の創始、房前大臣(ふささきのおとど)と呼ばれた『藤原房前』です。
 後に房前大臣は、死渡を僧の行基とともに訪れ、母の冥福を厚く祈り悲しみを乗り越える為この地名を『志度』と変えたと伝えられています。
 夫のため、子供のために命を捨てた海女『玉藻』の墓は今も志度寺の境内に残っています。そして、物語は能楽の『海士(あま)』として現代にも伝わっています。
海女『玉藻』
ちょうさに刺繍で描かれた竜の玉取り

藤原不比等は、奈良時代初期、西暦659年に藤原氏の始祖『藤原鎌足』の次男として誕生。
大宝元年(701年)刑部(おさかべ)親王とともに《大宝律令》をまとめた。
同年、大納言となり、和銅元年(708年)右大臣となる。
養老二年(718年)太政大臣に任じられる。
平城京遷都では、新京の経営にあたり、氏寺の《山階寺》を奈良に移し、寺の名前を《興福寺》と改称した。藤原四家を生み、北家十代の後に藤原道長が登場する。
 そして、その16代後に讃岐を統治するのが、高松城初代城主の生駒親正です。親正は、不比等を偲び一六度市を志度に起こし、自分のなきがらも弘憲寺とともに志度寺にも分骨しています。
              讃岐の民話より
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theme : 香川
genre : 地域情報

tag : 志度 三宮 多和神社 長竿 藤原不比等 海士 房前 ちょうさ祭り 速秋津姫命

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Secret

海士(あま)

藤原房前が自分の母親が讃岐国で亡くなった海人であることを聞き、母親の追善供養のために讃岐国志度浦へとやってきます。
そこへ一人の海人がやってきます。房前の従者は、海人に色々と物を尋ねます。すると海人は、「あそこに見える島は新珠島というのです」と従者に教え、その謂れである「珠取り」の話を聞かせました。
「昔・淡海公(藤原不比等)の妹が唐の皇帝に嫁ぎました。その后の氏寺が興福寺ですので、唐の帝から興福寺へ三つの宝が送られました。それは華原磬(かげんけい)・泗濱石(しひんせき)・面向不背の珠(めんこうふはいのたま)の三つでした。中でも面向不背の珠は珍しく、珠の中に釈迦の像がおられまして、どの方向から見てもこちらを見られてられるので、面を向こうに背かずと書いて面向不背の珠と言うのです。その中の二つの宝は京着したのですが、珠だけはこの沖合いで龍宮に奪われてしまったのです。淡海公は、龍宮よりその珠を取り返そうとこの浦へとやってきます。
そしてどうしたら取り返せるものかと長い間悩んでいました。そのうちに一人の海人と恋に落ち、男の子が生まれました。その生まれた男の子こそが今の房前大臣なんです」
海人の話をこっそりと聞いていた、房前の大臣。母を知っているかもしれない、この海人からもっといろんな話を聞きたいと、房前は自分の素性を海人に明かしもっと話を聞かせてほしいと頼みます。海人は、他所の事と思っていた人が目の前にいることに驚きますが、珠取りの話を続けます。
「その子を産んだ海人は、淡海公に{自分の子を世継ぎにしてくれるのであれば、命を投げ出して龍宮へ珠を取りにいきます}と淡海公に告げたのです。海人の申し出に淡海公は、その子を世継ぎにすると約束したのでした。
海人は安心し{もし成功すれば腰の縄を動かしましょう}と皆に約束し、海中深くの龍宮へ向かって潜っていったのです。龍宮へ着いたものの、八大龍王が住む龍宮です。八大龍王のほかにも、悪魚や鰐が口をあけていてとても恐ろしい様子です。これはとても生きて帰れそうにない。しかし、我が子の為に頑張らねばと、志度寺の観音様に祈り決死の覚悟へ龍宮へ飛び込みました。いきなりの海人が飛び込んできたことに、龍宮の者は驚き左右に逃げていったのです。龍宮の者が逃げたその隙に海人は、珠を取って逃げ出しました。珠を取られた竜宮は大騒ぎ。取り返されてなるものかと、守護神が追いかけてきます。龍宮の者たちは死人嫌うということを知っていた海人は、自分の乳房の下を鎌で掻き切ってその奥へ珠を隠したのです。血を見た龍宮の者たちは、海人に近づけずけません。その間に海人は腰にくくっていた縄を引っ張って海上に合図をおくりました。海上にいた人々は縄が動いたことに{成功したんだ}と喜び、急いで海人を引っ張りあげました。
しかし、引っ張りあげた海人の姿は龍宮の者たちに切り裂かれたりでとても無残なものでした。大臣は{珠も取り返せず、しかもこんなひどい姿になってしまうなんて}と嘆かれました。
すると海人は{私の乳房の下をご覧ください}と息も絶え絶えに大臣に言いました。乳の下を見ると一つの傷跡があり、その中から光り輝く珠を取り出したのです。
こうして淡海公と海人との約束の通り、その子であるあなたが世継ぎとなり、またこの浦の名にちなんで房前大臣という名になったのですよ」と海人は語ります。その話に圧倒された房前の大臣。
さらに海人は「自分こそが貴方の母。その海人の幽霊なのです」と房前に語りかけます。そして自分の言葉を扇に書き「このことを疑わずに、私のことを弔って欲しい」と大臣に言い残し、海人は海の中へと消えてしまいました。
不思議な出来事に大臣は驚きますが、海人の言うとおり扇を開けるとそこに文字が書かれていました「私の魂が黄泉にいって十三年。冥途はとても暗く、私を弔ってくれる人もいない。もし、あなたが孝行息子であるならば私の冥途での迷いを助けなさい」と書かれていました。確かにその出来事より十三年。これはまさしく亡き母の手跡であると確信し、房前大臣は妙法蓮華経を読み十三回忌の追善法要をはじめます。
するとそこへ母の霊が龍女の姿となって現れ、追善供養のお陰で成仏できたことを喜び舞を舞い志度寺の観音をたたえるのでした。

四方の霊験所

四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。(梁塵秘抄)
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