スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(241)栗林園二拾詠(青葉士弘)

特別名勝 栗林公園
栗林園
昭和28年3月に全国で8番目に特別名勝の指定を受けた回遊式大名庭園で、約22万8千坪の最大面積を有する日本を代表する名園です。
文化財保護法で、現在特別名勝の指定を受けている庭園は、大名庭園六、寺院庭園十三、その他庭園四の合せて二十三庭園です。

栗林園二十詠青葉士弘
約250年前に高松松平藩の儒学者、青葉士弘が藩主の第五代松平頼恭公の命により園内の名所を詩に詠んだ。
明和七年九月十一日

一、脩竹岡(シュウチクキュウ)
栗林園

修竹長岡に被り 濃陰碧流に映ず
高人来りて嘯詠す 応に此の君の為に留るべし

二、芙蓉沼(フヨウショウ)
栗林園
時に芙蓉沼を過ぐれば 芙蓉一様に開く
斜陽短棹の外 紅袖花に入って来る

三、戞玉亭(カツギョクテイ)
戞玉亭中の景 清泉戞玉流る
一觴復一詠 以って春愁を洗う可し
(現存しない)
栗林園
旧日暮亭
栗林園
降蹲踞(オリツクバイ)

四、西湖(セイコ)
栗林園
青春佳興を携え 小艇花林を過ぐ
昨夜連山の雨 今朝湖水深し
栗林園
西湖の赤壁(せきへき)

栗林園
桶樋滝(おけどいのたき)

五、栖霞亭(ケイカテイ)
此の亭中の幽なるを愛す 綵霞日に映じて開く
新花復新緑 時に酒杯を照す有り
(現存しない)
栗林園
日暮亭
栗林園

六、會仙巌(カイセンガン)
栗林園
真仙何か此に来る 
巌は余す会仙の名
風は鳳笙の響を伝え
雨は弾棋の声を作す
栗林園

七、飛猿巌(ヒエンガン)
栗林園
木屐高嶺に上れば 薜蘿秋色清し
清風深林の外 落日猿聲を聴く
栗林園

八、考槃亭(コウハンテイ)
茲の亭考槃と字く 時の碩人の軸有り
絃管の喧しきを用いず 淡然幽谷に坐す
(現存しない)

九、芙蓉峰(フヨウホウ)
栗林園
茲の山士峰に類す 峰勢自ら奇絶
峰頭萬樹の花 宛然六月雪

十、天女島(テンニョトウ)
栗林園
孤島水の中央 神祠花木深し
雲雨の変を為さず 時々鳴琴を弾ず

十一、楓岸(フウガン)
栗林園
峰傍萬樹の楓 紅葉好寓目
水に映じ復山に映ず 帰鳥敢て宿らず

十二、留春閣(ルシュンカク)
桃李三月の時 留春此の閣に讌す
唯百囀の鶯有り 慇懃君恩を謝す
(現存しない)

十三、百花園(ヒャッカエン)
栗林園
名園百深し 花を看て暝を覚えず
公来って然時に題す 明月花径を照す
(現存しない)現在は、茶畑

十四、鹿鳴原(ロクメイゲン)
栗林園
晴日呦(ゆう)々の鹿 平原春草新なり
笙を吹き復(また)瑟(ひつ)を鼓す 以て嘉賓を燕(えん)す可し

十五、梅林(バイリン)
栗林園
数歩梅行を為す 萬朶の花雪の如し
一夜月林に満つ 花と清潔を争う

十六、涵翠池(カンスイチ)
栗林園
池は千山の翠を涵し 雲樹清流に映ず
時に春風の転ずる有り 有魚枝上に浮ぶ

十七、南湖(ナンコ)
栗林園
南湖明月の夜 此に来って好し船を行らん
恍として似たり仙客を挈え 槎に乗る雲漢の辺

栗林園

栗林園

十八、掬月楼(キクゲツロウ)
栗林園
湖上清風来る 細雨夜来歇む
此の高楼の中を愛し 坐して東山の月を掬す
栗林園
掬月亭
栗林園
根上り五葉松

十九、睡龍潭(スイリュウタン)
栗林園
棹して過ぐ睡龍潭 朦朧昼開かず
雲雨をして至らしむる莫れ 是珠を採りて来らず
栗林園
小譜陀

二十、飛來峰(ヒライホウ)
栗林園
栗林園中の勝 飛來峰に過ぐる無し
下に甫田の道有り 春耕を老農に問う
栗林園


庭園と公園
栗林公園は、室町時代から江戸時代中期に作庭された『南庭』と江戸時代中期から明治時代にかけて作庭された『北庭』の二つから構成されている為、それぞれ趣が異なります。

南庭』は、室町・江戸時代と伝わる『栗林荘』『御林』と呼ばれてきた大名庭園の傑作として誇れる日本でも数少ない『盆栽庭園』の雰囲気を醸し出すところから、周りの風景も現代建物とか見えないよう隔離し、古来からの景観を維持していきたいものです。

それに比べ『北庭』は、明治初期にかけて作庭された歴史があるため、『公園』として周りのビル風景に溶け込んで、より一般に楽しめる公園としての雰囲気を持っています。

栗林園
箱松



栗林園
特別名勝 栗林園 仙磯の石 (せんぎ の いわ)
南湖の中央に『仙磯』という石組みを築く作庭技法は、共に藤堂高虎の家臣であり、娘婿であった西島八兵衛が『栗林公園』に、小堀遠州が『仙洞御所』に演出した日本で二箇所しか残されていない風景です。

栗林公園 仙磯
水面下の数百個にも及ぶ石に支えられたこの石組みには、自分が残した最高の庭園に仙人ですら呼び込もうとした(神仙思想)日本庭園を極めた西島八兵衛の想いが表現されています。


栗林園
鶴亀松(百石松)

栗林園
古理平九重塔(紀太理平の高松藩お庭焼き)



栗林公園内最大の茶室 掬月亭の名前の由来

春山夜月
 『掬水月在手 弄花香満衣』 
(水を掬すれば月は手にあり 花を弄すれば香は衣に満つ)
という詩句を南宋の虚堂智愚(きょどうちぐ)という禅僧が禅の教えに引用した為、禅語として広まりこの茶室に名付けられたと伝わっています。

その意味は、
月と花は本来いつどこにでもある真理の象徴として存在するが、月は掌で掬ったとき掌にあり、花は触れてこそ香りが伝わるため、実践してはじめて真理に触れるということだそうです。

藩政時代、
歴代の高松藩主がこの茶室で、客人と盃に 『  』 を浮かべて酒を酌み交わしたと伝わっています。(掬月)


スポンサーサイト

theme : 香川
genre : 地域情報

tag : 栗林園 仙磯 青葉士弘 西島八兵衛 小堀遠州 紀太理平 春山夜月

comment

Secret

百石松

天下の名園・栗林公園内の商品陳列所前に,百石松という這松(はいまつ)がある。
 今から約百五十年程前,松平藩の家老・稲田貞一氏の邸内にあったもので,彼はこれを非常に愛翫し(あいがん),朝夕手入を怠らなかった。ある日,このために登城の時間に遅れるに至った。藩公から大いにお叱りを受け,その罰として五百石に減じられた。松を愛する家老は,けっしてこれを恨まなかったという。以来,人呼んでこれを百石松といい,明治時代に栗林公園に移植された。

栗林」公園

●那須幹博の 讃岐のほんまですか?
 ビジネス香川BK(2010年2月上旬号:第11回)
  シリーズ11 栗林公園3  なぜ「栗林」か、などを推理する・・・

 栗林公園は、日本を代表する大名庭園にも拘わらず、
なぜ日本三名園(兼六園、後楽園、偕楽園)に名を連ねていないのか。
またそもそも「栗林」公園と名づけられた理由は、何か。
資料をもとに推理した私の考えを披露させていただきます。

1 なぜ、日本三名園でないのでしょうか?

 高松藩初代藩主松平頼重公が家康公の孫であるなど、
徳川本家と深いつながりがあったため、高松藩の歴代藩主は、
江戸城黒書院常溜(つねのたまり)の要職を務めてきました。
しかし、その結果、実は幕末の鳥羽伏見の戦いで、会津藩など
他藩に先駆けて、最初に官軍(錦の御旗)に果敢に鉄砲を撃ち込み
攻撃してしまいました。
しかし、たちどころに薩長主体の官軍の反撃にあって
降参、新政府にとっては、高松藩は賊軍であり、高松藩の領地は
賊軍の地となりました。
だから、旧高松藩の領地には天皇陛下の行幸は
なかったのでした。(実際は、通貨だけされたという説もあります。)
(三名園は、明治初期に生まれた言葉だが、行幸の地からのみ
 選ばれたのであろうと推測されます。)

 また、香川県は全国でも一番遅く独立した県(明治21年)であり、
明治初期は将来が暗澹としていた中で、とても公園の管理どころではなく、
大正天皇が皇太子の時に来られる予定に間に合わすかのように
建てられた商工奨励館(当時は県立博物館)が完成する明治32年までは、
公園自体がかなり荒廃しており、名園にはふさわしくない姿でもありました。

 しかし、明治36年の大正天皇(皇太子時代)の訪問をきっかけに、
復興を遂げ、明治40年頃から大正時代の国定教科書の国語に、
「木石の雅趣、三名園より優れり」と紹介されています。

2 なぜ、栗の木がほとんどないのに、栗林公園なのか?
 2代藩主頼常公(水戸光圀の実子)の時に、水不足などの飢饉対策の
非常食として、栗の植栽を行ったという記録があり、古絵図にも栗木原の
存在が確認され、栗林と名づけられた考えもありますが、
初代頼重公の英公(頼重)実録には、彼が1642年に赴して
わずか1ヶ月余で、「栗林荘で遊ぶ」との記述があり、
その考えは矛盾しているようです。

 また、「栗林」という地名は、1890年(明治23年)の
市制・町村制施行時になってからのようです。
結局、私は、紫雲山=「里山」にある下屋敷だから、
「栗林荘」と名づけたと考えています。
紀元前300年頃の中国戦国時代の思想家であった荘子は、
自書の中に「山本第20章、遊於栗林」と書いています。
中国では、古くから栗林は里山です。
栗林が、元々里山の意味なら、その地名がなくても不思議ではありません。
借景である里山の紫雲山があるからこその栗林公園であると私は確信します。

 追加ですが、
◎明治中頃に、誰が、栗林公園の真の価値を見出し、
 復興に力を注いだのでしょうか!
 公園の整備、博物館の建設、国定教科書への掲載など
明治20年を過ぎてから、公園は改修工事も進み、次第に整備され
直していきます。
明治末期から大正にかけては、実に多くの皇族関係の方が
ご来園されています。

 たとえば、大正天皇は皇太子の時に掬月亭に4連泊もしています。
明治36年10月10日から、4泊5日です。
掬月亭は、宿泊施設ではないだけに、異例中の異例です。
大正天皇は、この後、善通寺市の交流サロン偕行社の杮落としにも
出席しています。

 ほかにも、
・大正3年  秩父宮殿下、高松宮殿下
・大正12年 久邇宮殿下、同妃殿下、香淳皇后、信子女王殿下
・大正14年 北白川宮大妃殿下、北白川宮能久親王殿下、同豊子妃殿下
 らが訪れています。
 
 また、既にお話ししましたが、
イギリスのエドワード8世(現エリザベスⅡのおじさん)も
来園されています。

 そして、大正天皇が皇太子に時代に訪れたことがきっかけに
その後明治40年頃から大正にかけて、国定教科書に
「木石の雅趣、三名園より優れり」と紹介されています。

 いったい、どうして、大正天皇が皇太子時代に訪れ、
それも1回目の計画は病気で流れ、2回目にようやく実現され、
しかも、掬月亭に4連泊もされたのは、いったい何があったのでしょうか?
 これは、今後の研究課題ですが、私は、貴族院議長まで勤めた
12代当主松平頼寿(よりなが)公の存在が大きいと、
個人的には推測しています。

西嶋八兵衛

村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』などによれば、八兵衛は、慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれたと記しています。
ただし、八兵衛自身の由緒書などの史料にはその記載もなく、家伝によってまとめられたのかも知れません。
幼名は之尤ゆきまさと云い、八兵衛は通称です。
寛永12年頃に之尤を之友と改めたようです。
このほかに俳号として、木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号していました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光と云います。
父九郎左衛門は、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため一旦、藤堂家を辞し、父は浜松へ居を移したようです。
八兵衛が満16歳(数え歳17歳)になった慶長17年(1612)、駿河国(静岡県)の駿府(静岡市)で藤堂古采女(采女元則)の肝煎(斡旋)で高虎(当時56歳)に初見え、父の跡を継いで仕え始めました。
徳川家康が、駿府を隠退の地として、江戸城から移っていましたから、藤堂高虎も付き添うように屋敷を設けていたと考えられています。

八兵衛は、慶長17年から高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。
主人の高虎は、当時、築城の名人とされ、和歌山城・今治城・江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城してきました。
八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接するうちに、築城に関わる諸知識を習得していったと思われます。
元和5年(1619)、徳川家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎の監修の元、23歳の八兵衛が、その絵図の作成・設計の実務にあたります。
また、翌元和6年(1620)、大坂城の修築にも当っています。

戦乱の時代が過ぎ、それぞれの大名の支配地でも、安定した生活が営まれるようになると、生活の安定の基盤作りに関心が向いていきます。
各大名は、生産の最も基本となった農地の整備に、力を注ぐようにもなります。
また、その頃、各地を干ばつなどの被害が襲うようになり、八兵衛の力が発揮されるようになります。
大名の家臣でも、このような、民衆の生活と深く関わる民政担当の家臣を『民政臣僚』と呼びます。
藤堂藩では、この時代、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。

八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されます。
八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃でした。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、何故、他家に派遣されたかと言うと、讃岐で17万3000石の領地を治めていた生駒正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたからです。

日本最大の池として著名な香川県多度郡満濃町にある満濃池は、古くに築堤された池です。
空海が、嵯峨天皇の勅命を受けて、弘仁12年(1184)修復を完成させました。
その後、満濃池は、仁寿元年(851)に大決壊し、その後修復工事がされますが、元暦元年(1184)にも大決壊をします。
その後、修復されずに推移し、池は農地になっていました。
池としての機能の復活に大きな働きを果たしたのが、八兵衛でした。
八兵衛は、寛永5年(1628)10月にこの満濃池の修築工事に着手し、完成まで工事は2年5ヶ月にも及びました。
その後、、安政元年(1854)6月に起きた「安政の大地震」による大決壊まで、地域に稔りをもたらしていきました。
八兵衛は満濃池をはじめとして、大小90余りの池作りを行い、農業用水の確保を図りながら、幾つもの新田の開発も行って行きました。

客臣として仕えていた生駒家が、幕府より改易された事に伴い讃岐を引き上げた八兵衛は、寛永18年頃より正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。

やがて正保2年(1645)、八兵衛は、江戸で藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となりました。
この少し前、寛永期を中心とした頃に、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも、大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。
高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)、江戸より帰国します。
その折、八兵衛も藩主の命を受けて、藩主高次と共に帰国し、伊賀地域で溜池の新設29池、修理14池を行ったといわれています。
伊賀では、まとまった新田開発として、正保4年(1647)から山畑で新田開発を始めました。

慶安元年(1648)、西嶋八兵衛は52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
大和(奈良県)・山城(京都府)に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職に就任しました。
この時は、本城のあった安濃津(現:津市)に居宅を置いた状態で城和奉行を務めていたようです。
その後10年間、津で城和加判奉行を務めていましたが、万治元年(1658)、62歳になって伊賀奉行を拝命します。
このため、八兵衛は、津から上野へ転居することになりました。
しかし、後任の城和奉行の中小路五郎右衛門が、その後まもなく死去する事態となります。
その結果、八兵衛が再度、城和奉行として復職することとなりました。
途中、わずかな中断期間がありますが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務しました。
引退後3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。
享年84歳。
全記事(数)表示
全タイトルを表示
リンク
時計

自己紹介

桃太郎 tnk

Author:桃太郎 tnk
童話のふるさと香川県!!

カテゴリー
最近のコメント
あなたの天気
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
フリーエリア
FC2カウンター
最近の記事
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking  

 ↑四国のブログにリンクしています。
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 トラコミュ 史跡・神社仏閣へ
史跡・神社仏閣
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
携帯用QRコード
QRコード
携帯電話からも確認できます。
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のトラックバック
国盗りカウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。