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(250)大禹謨 (だいうぼ)


大禹謨

栗林公園は、元香東川の東の流れの河床であったが、寛永年間(1630年頃)に、西嶋八兵衛西嶋之友)が香東川の改修を行った後、大名庭園として本格的な築庭があったとされています。

 この石碑は、その香東川の改修を行った西嶋八兵衛が、書経にある中国古代の大聖夏の禹王の遠大なる「はかりごと」にあやかり、大禹謨を自ら書いて香川町大野に鎮斎していたものを保全と顕彰のため、昭和37年7月7日に香東川とゆかりの深い栗林公園に移したものです。

大禹謨
大禹謨の石碑
  高さ 58cm
  幅  20cm
  重さ 39.6kg

大禹謨
讃岐の水に対する感謝から、大禹謨への献茶が行われました

来年、平成24年が「大禹謨」の碑の発見されてから100年となります。また、その碑が栗林公園に鎮座してから50年の節目の年を迎える。「大禹謨」の言葉は、中国の四書五経の一つである「書経」の中に見られ、中国黄河の治水に尽くした夏王朝の祖「禹王」の大なるはかりごととして書かれています。

栗林公園
栗林公園(商工奨励館)この中庭に碑がある。

西嶋八兵衛之友

西嶋八兵衛之友(にしじま ゆきとも)
藤堂藩きっての能吏で、城和奉行をつとめた西嶋八兵衛は、慶長元年(1596)に遠州浜松で生まれた。本名は之尤(ゆきとも)、のちに之友と改めた。
 慶長十七年、駿府において藤堂采女元則の肝煎により、禄一五〇石で藤堂高虎に召し抱えられた。元和元年(1615)の大阪冬・夏の陣では、高虎の側近として、主に記録方を担当。その後、高虎が縄張りの任に当たった二条城や大坂城の増修築工事では、絶えず身近で右筆として仕え、為政の手法や、土木技術を修得するという機会に恵まれた。
 元和七年(1621)、讃岐国の藩主、生駒正俊が36歳で死んだ。正俊の妻は高虎の養女であったが、その子高俊が11歳の若さで家督を継いだため、祖父である高虎が高俊の後見人として生駒家の内政に関与。そこで高虎はまず腹心の八兵衛を讃岐国へ派遣した。
 その後、八兵衛は一旦津藩へ帰るが、寛永二年(1625)の讃岐大旱魃で再び生駒家へ派遣され(禄高 二千石)、土木技術に長じていたので、四年間で数多くのため池の築造・復興を成し遂げた。同六年(1629)、老齢で病気がちとなった高虎は、自分の身近にと八兵衛を江戸へ呼び返したが、高俊の岳父で老中の土井利勝の強い要請で三たび讃岐の治世に当たることになった。翌七年、高虎が死去。同八年には三年の歳月をかけた満濃池の修復工事が完成。つづいて洪水の氾濫で課題となっていた香東川の改修工事を竣功させた八兵衛は、名実ともに讃岐の一大恩人として顕彰される人物となった。
 正保二年(1645)、八兵衛は藤堂高次に禄一千石で召された。一時、江戸家老をつとめたが、翌三年に旱魃があり、山畑新田や美濃波多新田の開墾、雲出井手の開築などを手がけた。慶安元年(1648)には藩の山城大和を管括する城和奉行を仰せつかって、その後、約三十年にわたって城和の民生に力を注ぎ、奉行記録『萬大控』を残した。85歳で死去。上野市紺屋町の正崇寺に眠る。

大禹謨 西嶋八兵衛之友
大禹謨 藤堂高虎の祐筆であった西嶋八兵衛之友の筆と伝わる。




ちなみに、
書経にはその体裁によって以下のようなものがあります。

(こう) - 君主の臣下に対する言葉
(ぼ) - 臣下の君主に対する言葉
- 君主が民衆に対する宣誓の言葉
- 冊命(さくめい)あるいは君主の命令の言葉
- 重要な歴史的事件のあらましが書かれたもの


書経-虞書[大禹謨]

帝曰く、 来たれ、禹(う)。
降水予われを儆いましむ、允(まこと)を成し功を成す、惟れ汝の賢。
克また邦(くに)に勤め、克た家に倹にして、自ら満假(まんか)せず、惟れ汝の賢。
汝じ惟(こ)れ矜(ほこら)ず、天下に汝と能(のう)を争ふ莫し。
汝じ惟(こ)れ伐(ほこら)ず、天下に汝と功を争ふ莫し。
予(わ)れ乃(なんじ)の徳を懋(さかん)なりとし、乃(なんじ)の丕績(ひせき)を喜(よみ)し、天の歴数
(れきすう)は汝の躬に在り、汝じ終に元后(げんこう)に陟(のぼ)れ。
人心は惟(こ)れ危く、道心は惟れ微なり、惟れ精に惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中を執れ。
稽(かんが)ふる無きの言は聴く勿れ、詢(と)はざるの謀(はもち)ふる勿れ。
愛す可きは君に非ずや、畏る可きは民に非ずや、衆や元后に非ざれば何をか戴(いただ)かん、后(こう)や衆に非ざれば與(とも)に邦を守る罔(な)し。
欽(つつし)めや、乃(なんじ)の有位を慎み、敬して其の願ふ可きを修めよ、四海困窮せば、天禄(てんろく)
永く終はらん。
惟れ口は好みて出だし戎(じゅう)を興す、朕が言再びせず、と。
禹曰く、 功臣を枚卜(まいぼく)し、惟れ吉に之れ従はん、と。
帝曰く、 禹、官占は惟れ先づ志を蔽(さだ)め、昆(のち)に元亀(げんき)に命ず。
朕が志は先づ定まり、詢(と)ひ謀るに僉同(せんどう)し、鬼神其(そ)れ依(よ)り、亀筮(きぜい)協かなひ従ふ、卜は吉を習(かさね)ず、と。
禹、拝し稽首(けいしゅ)して、固辞す。
帝曰く、 毋(な)かれ。
惟だ汝に諧(かな)ふ、と。
大禹謨

現代語訳・抄訳
帝舜が云った。
来たれ、禹よ。
洪水の吾を戒めるに、天地の運行に従いてこれを治め天下を安んずるに至らせしは、これ汝の賢たる所以である。
国家に勤め、少しの富も求めず、大功あるも意に介さぬは、これもまた汝の賢たる所以である。
汝は己の才に驕ることも、己の功を誇示することもせぬ。
故に天下に誰も汝と競わんとするものはいない。
汝の徳は天下を安んずるに足り、汝の功績は天下に讃えるに足る。
そして何より天命は今、汝の元に存するのだ。
禹よ、今こそ帝位に即け。
人心は私を為し易く、道心は顕れ難きものである。
故に精一を旨とし、道心を内に存して人心を従わせ、常に中なるを執るのだ。
天理に存せざる言は聴かぬが善い、天理に沿わざる謀は用いてはならない。
人君たれば父母の如くに民より愛され、民を天地の如くに畏れ貴ばねばならぬ。
民はその生を人君に頼り、そして人君はその民と共に在らずして何を守るべきものがあるだろうか。
己を修めよ。
その尊位を慎み、敬を持して天徳を修めよ。
天下万民を安んぜざれば、天よりの禄も終には途絶えよう。
善なりとして口より出だすも、重ねればやがて禍となりて争いが生じる所以となる、故に吾は再びは言うまい、と。
禹は云った。
功ありし臣は幾多と居ります故、各々を卜した後に吉と出た者に従いましょう、と。
帝舜は応えて云った。
禹よ、占は志に断じきれぬものありて後に、その吉凶を得るのである。
吾が志は既に定まり、これを皆に諮るに、皆が禹の帝位に即かんことを願った。
人心従がえば自然と鬼神もこれに依り、亀筮も自ずと従がうものである。
既に明らかで有るにも関わらず、更に占断して吉を願うは神意に逆らうものである、と。
禹は丁寧に拝礼して、固辞した。
帝舜は云った。
受けよ。
天命は汝に在るのだ、と。
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tag : 栗林公園 大禹謨 西嶋八兵衛 西嶋之友 四書五経 禹王 書経

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大禹謨

大禹謨(だいうぼ)


西嶋八兵衛直筆とされる「大禹謨」の碑
「大禹謨」は、寛永年間、時の生駒高敏の招きにより、伊勢藤堂藩から派遣された西嶋八兵衛が香東川の氾濫をなくすための大改修工事を行い、東と西の流れを現在の西の流れ1本にした際、工事の安泰を祈り、自ら書いて地中に埋めたものと言われている。

洪水に流されていたのを大正元年、大野中津の住民が川普請(河川工事)の折、拾上げて川岸に安置していたものを、郷土史研究家である平田三郎氏が発見し、現在、栗林公園の商工奨励館の中庭に移設されている。

「禹」は、今から4,000年前の中国において、黄河の氾濫を治めた治水の大聖人であり、西嶋八兵衛は偉大な「禹」にあやかろうとしたものである。

「大禹謨」は、このように西嶋八兵衛の精神を込めて香東川大改修の際その地に鎮斎されたもので、その改修により、長く洪水時の氾濫に悩んだ地方民を救い、今日の郷土に大きな利益をもたらし、その基を築いたものである。

「大禹謨」が保存されている栗林公園は、国から「特別名勝」に指定されており、日本三公園に優る我が国随一の名園であるが、その敷地は、西嶋八兵衛が大改修を行う前は、ほとんどが香東川敷地であった。香東川の大改修に併せてその豊富な伏流水を利用し、砂礫の中に本園を築庭したもので、本園の原型は、このとき八兵衛によって造られた思われる。

西嶋之友

西嶋八兵衛(にしじまはちべえ)
1596年(慶長元年)~1680年(延宝8年)


今日、讃岐の築池の功労者として第一に名前が挙げられるのがこの西嶋八兵衛である。彼が築造したものの代表的なものには日本最古の人工池である満濃池があげられる。また、高松近辺では、小田池、龍満池などの築造が有名であり、香東川の一本化や春日川新田開発などその業績は枚挙に暇ない。讃岐には、元和7年(1621年)にはじめて来訪して以来、3度訪れており、人生の半分は讃岐にいたことになる。

讃岐の水利開発の功労者、西嶋八兵衛は、慶長元年(1596年)静岡県で生まれた。藤堂藩に仕えていた父九郎兵衛は、体調を崩し療養していたが、旧領主藤道高虎が江戸へ下るために浜松に宿泊した際に八兵衛を同道して挨拶に行ったところ、八兵衛の利発さが高虎の目にとまり近習役(秘書)として採用された。その後、高虎の指導のもと才能を伸ばし、土木技術などの専門的な技術も身に付け、他藩にも知られるようになっていった。また、政策面にも才能を持っており、26歳の元和7年(1621年)に讃岐生駒藩に出向することになる。

この讃岐生駒藩4代高俊世襲の後片付けのために派遣されたことがもとで、その才能を見込まれた八兵衛は生駒藩に寛永2年(1625年)に客臣として招かれた。

八兵衛が着任した慶長2年の秋に大地震があり、翌年には大暴風雨、次いで3ヶ月もの日照りで飢餓者まで出るというひどい大干ばつに見舞われるなどの災害が相次いだ。「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」といわれ、日照りが続くと水に困窮し、大雨になると鉄砲水が民家や田畑を押し流し被害を出すという讃岐において、治水利水事業は急を要し、着任した八兵衛は、早速、領内を視察して災害の状況を見て回った。八兵衛はこの状況を高虎に詳しく報告し、助言をしてもらう一方、重役たちにも恒久的な治水利水計画について早急な実施を進言、同意を得て着任したその年に早くも事業に着手している。

特に、満濃池は、空海の築造から数百年経ち、再三の決壊や堤防老朽化でほとんど水がめの役割を果たしておらず、元暦元年(1184年)以来、堤防が決壊したままになっていたが、八兵衛により満濃池を嵩上げし近代まで有効なため池にした。その他にも、今日著名なため池のほとんどを手がけ、わずか数年で90余のため池の築造、増築を行うとともに、石清尾山の東と西の両方に流れていた香東川を西の流れ1本にして、現在の川筋とし、氾濫を防いだ。また、高松市の福岡、木太、春日の新田干拓も行った。八兵衛の築いたため池は、かんがいだけでなくこれによって洪水をなくすという防災的な効果を持つ、いわゆる多目的ダムの考えに立っているのが多く、その技術者としての手腕がいかにすぐれていたかがうかがえる。寛永16年(1639年)、八兵衛は讃岐から伊勢に帰ったが、その翌年の寛永17年、生駒家はお家騒動で領地が没収され、高俊は出羽(秋田県)に左遷された。その時八兵衛は、慶安元年(1648年)山城(京都府)、大和(奈良県)の幕府の領地5万石を支配する城和奉行、のち伊賀奉行に展じ、大いに治績をあげた。
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