(83)名家老 木村黙老 物語

木村黙老は、安永3(1774)年4月3日、5代藩主松平頼恭(よりたか)の時の名家老木村季明(すえあき)の孫として、高松城下二番丁屋敷(現高松工芸高校の西北隅あたり)で生まれました。名は亘る(わたる)、忌み名(死後にその人を尊んでつけた称号)は通明(みちあき)、通称は与総右衛門、黙老(もくろう)は雅号(ペンネーム)です。
黙老は、幼いときから西の丸学問所で学び、成績が格別に優れていたので藩主から褒美をもらい、その一年後に小姓役に取り立てられています。黙老は、和漢の学に通じ、また25才の頃、直真影流兵法(じきしんかげりゅう)の目録を授けられた武道の達人、まさに文武両道の人でした。そのうえ、唄や絵画も上手で芝居なども分かる人でした。
文政4(1822)年5月、松平頼儀(よりのり)が病気で引退し、松平頼恕(よりひろ)が9代藩主の座に就きます。黙老は翌文政5年8月に書院番頭、その翌年3月には、国家老へと栄進します。50才でした。
そのころの高松藩の財政は、余裕がなく困窮していました。あいつぐ旱魃による民衆の生活の苦労に加えて、世継ぎ松平頼胤(よりたね)の婚儀(将軍家から文姫(あやひめ)を迎えた)費用10万両、屋島山麓への東照宮社殿造営費14万両、江戸上屋敷火災に伴う再建費4万両などが重なり、加えて、これまでに積もった近畿の豪商からの借財50万両の返済に迫られていたのです。
木村黙老は、『久米栄左衛門通賢(みちたか)』の意見を聞き入れて、坂出の塩田開発に取り組ませました。財政困窮のさなか、巨費を投じての工事には多くの異論もありましたが、黙老は藩主に進言して、反対意見を説得しました。工事は、わずか3年5ヶ月で文政12(1829)年8月に完成。経費2万両で、115町6反歩(約115Ha)という広大な塩田が造成されたのです。藩は、その後も塩田を広げ、年収は2000両にも上りました。
この年の11月、木村黙老は江戸家老を命じられて江戸屋敷詰めとなります。そして、以前に久米通賢から意見が出されていた【砂糖為替制度】を採択、讃岐の糖業に大いに貢献しました。
また、国家老『筧政典(かけいまさのり)』の協力を得て、枌所(そぎしょ)東村の錆田池を改修し、綾川町10ヶ村の灌漑用水を確保し、永富池と改称しました。
こうして、10年ほどの間に五穀は豊かに実り、砂糖・塩などの特産品の生産は増大し、藩の財政はおおいに改善され幕末には180万両の蓄えとなる礎を作りました。
【讃岐三白】砂糖・塩・米 高松松平藩
cf.棉(綿)・塩・米 丸亀京極藩
木村黙老が、江戸家老になったことから、忙しい政務のかたわらで、日々思いついたことや出来事などを書き留めるようになりました。
江戸では、当時劇作家として人気を博していた『滝沢馬琴』と交わるようになり、文筆活動はますます盛んになったようです。
その時に書き留めた文章は、「聞くままの記」と題してまとめ、製本されました。文政10(1827)年頃から20年余りにわたって書き続けた「聞くままの記」は、「続・聞くままの記」と合わせて83冊にもなりました。その中で特に多いのが、歌舞伎や芝居などに関する事柄です。
なかには、嘉永6(1853)年、ペリーが率いるアメリカ合衆国の軍艦と蒸気船4隻で浦賀へやってきた重大なニュースもあります。大きな鉄の軍艦や蒸気船を初めて見た人々は「黒船だ。黒船が来たぞ。」と、幕府から庶民にいたる人々の驚きとあわてぶりを狂歌にしたものが「続・聞くままの記」に書かれています。
― 高松市歴史資料館
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高松松平藩
